セッション12

いいなあと思う憧れの出版社がいくつかある。みすず書房はそのひとつ。

「好き」とか「お気に入り」じゃなくて、「憧れ」なのは、価格帯もあるのだと思うけれど、生み出される本一点一点の佇まいが美しいからだ。言及するときもちょっと通ぶって「みすず」と呼んでは、実はどきどきしていたりする。

 今回の課題本は出版前から本の界隈の人たちの間で話題になっていたが、実際に初めて書店で見たときに強烈に「欲しい」と思ってしまった。ただ、さすがの「みすず価格」だったので(¥4,600+税)、手に入れるまで熟慮を要した。

エコラリアス

エコラリアス

 

カバー絵は、ジャクソン・ポロック

本書の装丁は、絵とタイトルのロゴや配置、「みすず書房」の出版社表記までもがセットとなったデザインだと感じた。表紙も、背表紙も。全体的に自分好みである。

セッションのとき、「カバーがつるつるしてて、”いつもの”みすずの紙質と違う気がする、本とずれていくので読みにくかった」と指摘があった。言われてみればカバーが外れやすかったかもしれない。相棒はいつも本の造りとか、物質的な部分にも細かく気付いて言及する。自分が気付かないところまで。

 

タイトルの副題「言語の忘却について」は特に興味ひかれるテーマだ。冒頭、幼児の喃語について著者はロマン・ヤコブソンの次の言葉を引く。

「観察者たちにとっても驚くことに、幼児が前言語段階から最初の単語を獲得するにいたる際、つまり本来の意味での言語的な第一段階で、様々な音を発する能力をほとんど失ってしまう」ことが確認されている。(p.10) 

このことを受けて、著者は次のように疑問を投げかけている。

子供が、ひとつの言語の持つ現実に吸収されきってしまい、その言語以外のあらゆる言語の可能性、無限の、しかし結局は不毛である可能性を、これを限りと捨て去ってしまうことがあり得るのだろうか。(pp.11-12)

 

この部分を読んで、ある児童文学を思い出した。

風に乗ってきたメアリー・ポピンズ

風に乗ってきたメアリー・ポピンズ

 

子供のころ、特に好きなシリーズだったのだが、なかでも折に触れ思い出すエピソードがある。それは「ジョンとバーバラの物語」である。

バンクス家の4人の子どもたち、ジェイン、マイケル、双子のジョンとバーバラのお世話をするnannyのメアリー・ポピンズは、不思議な力を持っている女性。こうもり傘で空を飛び、ドラえもんの四次元ポケットのような「絨毯バッグ」を持っている。nannyについては日本に類似する職業がなかったのでなんともいえないが、乳母は別に登場するし、勉強を教えるわけでもなさそうなので「子どもたちと一緒にいてお世話する人」というくらいなのだろうか。

さて、「ジョンとバーバラの物語」のなかでは双子のジョンとバーバラは赤ん坊で、メアリーの古なじみらしい鳥(コマドリ)と、おしゃべりをしたりクッキーをあげたりして遊んでいる。コマドリは、二人もいつか、今は聞こえている風の話す声や、コマドリの言葉も解さなくなる、忘れてしまうのだと意地悪く二人をからかい、二人は「そんなのは信じない」と怒り悲しむ。しかし、やがてまた別のある時コマドリが訪れると、ジョンとバーバラは、もうコマドリと話す言葉を忘れてしまっていたのだった。

同じ出来事は、続編においても発生する。ジョンとバーバラの下に、さらにアナベルという妹が生まれ、やはりコマドリと仲良くなる。コマドリは、また同じことが起きるはずと思いながら、「もしかしてこの子だけはメアリーのように自分たちの話す言葉を忘れないかもしれない」と期待する。(そうなってほしくない、という思いの裏返しで、コマドリは必ず子どもたちに意地悪を言うのだが)。

私たちが日常的に話す言葉を話せるようになる前の子供たちは、私たちの理解できない不思議な言葉を話す。その様子を見ていると、風や鳥といった、自然界との会話もできているに違いないと信じられる。

メアリー・ポピンズの物語と、私たちの日常は地続きな部分もあり、さらにそこに「エコラリアス」の論考はリンクしているように思えるのだ。

  

人間の成長過程における言語の忘却の話とは別に、歴史的に見て消滅していく言語もある。本書ではその現象を「言語の死」と呼んでいる。

著者は「ある言語が本当に消滅したと、どうしたら確信できるのか、という解決できない恐れがある問題」について、さまざまな学者の説を引用し検証しようとしており、大変興味深い。ある言語の最後の話者をめぐり「言語の終焉」について語るジョゼフ・ヴァンドリエスの言葉には特に考えさせられた。

それにしても、コーンウォール語は彼女の死の瞬間に本当に死んだことになるのだろうか。老いたドリーはこの言葉を話すただ一人の人間だった。しかし、言葉を話すには少なくとも二人の人間が必要だ。コーンウォール語は、彼女に返答できる最後の人間がいなくなった日に消え去ったのだ。(p.76)

「話す」ことには相手が必要であるという、当たり前の事実についての不思議さを思う。本ブログにおける読書のセッションも、一人の感想戦ではなく、同じ本を読んだ誰かと対話することによって成り立っている。その対話から感じたことを書き記すことによって、それをさらに相手に伝える。読んでまた、対話していた時とは別のことを思うこともある。言葉は自分ではない誰かほかの人を通すとまた別の変化を遂げる。自分の思いも他の人の言葉にあてはめて変わっていく。変わっていくようではあるが、変わる前の思いもそこには含まれている。

言葉・言語は伝達のツールにすぎず、絶え間なく変化していき、時に「死」を迎えるように考えられているが、実は現在のわれわれに見えていないだけで、ひそかに記憶を内蔵し、とどめているのではないか。 

ある言語が別の言語に変化する時には、常にその残余があるが、誰もそれが何かを思い出すことはできない。言語の中には話し手よりも多くの記憶が残っていて、それは生き物より古い歴史の厚みの痕跡を示す地層に似ている。それは必然的に、言語が通ってきた幾つもの時代の跡を残している。ラルフ・ワルド・エマソンが書いているように、「言語は歴史のアーカイヴ」であるのなら、言語はその仕事を学芸員もカタログもなしに行っていることになる。(p.91)

情報には表層と深層があり、いま見えている部分だけではなく、奥底にまた別の有用なものがあるかもしれない。そうであるはずだ、と考えることは日々自分に課していることでもある。

しかし、「学芸員もカタログもなしに」アーカイブする歴史は、想像するだけでも混迷の極みだ。そのことは著者も認めている。

わたしたちが思っているよりも、ある言語はそれ以前に存在した幾つもの言語を留めていて、その響きが、弱まったとはいえ、現在の言語の中にも続いていると考えられなくはない。言語の地質学者たちは、精密な研究により、その地に元からあったり、または他の土地から来たりした言語を構成し分解する、複数の層を同定していると自負している。しかし、失われた時の探求は、記憶においてそうであるように言語においても困難であり、ある言語が通り抜けた複数の時代は、歴史家や考古学者の手に容易に負えるものではない。(p.101)

「言語の地質学」という言い方はすてきだ。言語というとらえどころのない目に見えないものが、地層に例えられることで一気にビジュアルとして浮かび上がるし、研究者自身がこつこつと石を掘り痕跡を探すような姿まで想像してしまう。

さらに著者は、言語そのものを「複数で密接な関係を持つ厚みの異なった層の移動=絶え間ない地滑り」として定義しようとしている。

このように、言語が消滅するというよりも、地滑りによって層の変化が起こり、表層に見えないようになる、という考え方の方が自分にはしっくりくる。地層のように考えていくと、忘れられてはいるが、ひっそりと今につながる土台となっていると考えることもできる。

 

一般的な忘却ということと、本書のテーマの「言語の忘却」は別のことだと分かっている。それでも、「忘却すること」そのこと自体を考えずにはいられない。

 それほど大切と思われることでなくても「忘却すること」に後ろめたさを感じてしまうのはなぜなのだろう。

全てのことを記憶にとどめておくことは困難だ。後世に残るよう、記録にすることもなかなか難しい。しかし、人は忘れてしまう。

 

でも、このようにも考えられる。忘れているだけなのだ。消えはしない。

 

本書を読んで、分かったこともあるし、ますます分からなくなったこともあるし、新たに疑問に感じてしまったこともある。

それでも楽しかった。

分からないことによって、照らされる自分を見つめるのは、愉快である。