セッション22

なるべく実店舗の書店で本を買うようにしている。

それは、書棚を巡るのが好きだということもあるが、本を見る勘をなくしたくないという気持ちがあるから。

ただ漫然と本棚を巡っているようでいて、慣れていない店だったり、自分が疲れていたりすると、つるつると目の前を表紙が、背表紙が滑っていき、せっかく書店にいるのに何も買えない、何も得られないことがある。

自分に合った本を見つけるには、それなりに書店トレーニングが必要だ。ましてや他人に合った本を見つけられるなんてすごいことだと思う。

記憶する体

記憶する体

  • 作者:伊藤 亜紗
  • 発売日: 2019/09/18
  • メディア: 単行本
 

今回の課題本は、書評などでたびたび取り上げられて話題になっていたので、タイトルは知っていた。

店頭で見た瞬間に「読みたい」と強く思った。正確には「読み合いたい」かもしれないが。坂口恭平による表紙カバー絵をはじめ、装丁の力だと思う。

手にして読んで、また、読んだ感想を誰かと語りたいと思うような本。

 

プロローグから引き込まれる。必ずコーヒーショップで原稿を書くという著者は、それを「コーヒーショップの法則」と呼ぶ。自分の場合、集中して書き物をするのは、自室の勉強机ではなく、居間のテーブルだったと思い起こす。

コーヒーショップの法則を支えているのは、私の個人的な経験の厚みだけです。

それはいわば、断崖にあらわれた地層のようなもの。地層がそのような順で重なっていることに、理由はありません。あくまで火山の噴火や地殻変動といった地学的イベントの結果として、そのような地層が出来上がっただけです。

同じように、私のコーヒーショップの法則も、私のこれまでの「書く」という経験が積み重なった結果、そのような法則らしきものができあがっているだけです。(p.4)

著者は続けて、こうした法則は「究極のローカル・ルールのようなもの」であると述べる。そうして、体にもローカル・ルールがあり、それらを記述することで、他には代えがたい固有性の成り立ちを解明しようとしている。

また、「固有性の圧倒」について科学として扱うということを試み、12人の当事者にインタビューしてまとめたのが本書である。

 

最初から最後まで、難しすぎると思うことはなかった。

また、障害を持つ当事者の話でありながら、読んでいて不必要につらいと感じることもなく、楽しく読めた。

それは、本書が全編を通じて分かりやすい言葉と読みやすい文体で書かれているということに加えて、それぞれのエピソードが大変興味深かったいうことも大きい。著者の「体の記憶」に対する探究心に自分の好奇心が呼応したものだと思う。

つまり、家の中とは、よい意味で「思い込み」が通用する空間です。(p.28)

こんな感じで、時折あらわれる独特な言い回しが「すとん」と意味とともに体に入ってくる感じが心地よい。

 

エピソード1は「メモを取る女性」は、19歳で全盲になった女性が、目が見えなくなってからもメモを取り続けることについて考察するものである。

目が見えなくなって、玲那さんは毎日が「はとバスツアー」になってしまったと言います。(p.43)

《中略》

結果として起こるのは、障害がある人が、障害がある人を演じさせられてしまう、という状態です。「障害を持った方としてのステイタスをちゃんと持たないと、どんどん社会不適合者になっていくなと思って、言葉で説明していただいたものを『はい』『はい』と聞いていました。『ちょっと坂道になっています』とか、毎日まいにちはとバスツアーに乗っている感じが(笑)、盲の世界の窮屈なところだったんですけど、それに慣れていくんです」。(p.44)

こうして「自分がとっちらかってしまった」彼女は、絵を描くことで自分のアイデンティティを取り戻していく。そこから、日常的に「書くこと」を通して、「他者が介入しない自治の領域を作り出す」方法を見つけた。それがメモを取ることなのだ。

メモを取ることは、すなわち「見えていた十九歳までの身体」と「現在の身体」を多重化させる行為である。その考え方に感動を覚える。

 

エピソード3の事故により左足膝下を失った男性は、切断した左足を積極的に使い 、自分の両足のことを「『右足くん』と『左足くん』は全然別の人です。」と表現する。そして、失われたはずの左足のほうが「器用」だという。

ここで、著者は「器用」と「機能」の違いについて考察するのだが、「器用」はマニュアル操作で「失われた機能を補う」ことなので、当事者にリスクもあると述べている。確かに、障害のある方がスポーツをする姿をテレビなどで見ると、確かに「なんて器用な」と感動を覚えることが多い。

しかし、オートマで動かせない体を、考えぬくことで制御しているのだとしたら、ここでいう「器用さ」は想像を絶するトレーニングの上に成り立っていることになる。

 

エピソード5の読書の例も興味深かったが、それは「アーカイヴ」につながる内容であったからということもある。

記憶とは必ずしも個人的記憶に限られません。たとえば、原爆ドームを見て太平洋戦争に想いを馳せる。実際に戦争をしている人にとってもそうでない人にとっても、この連想は日本人ならばきわめて普遍的なものでしょう。記憶は、複数の人間から成る集団や社会において、伝えられた理、共有されたりするものでもあります。(p.116)

そして、著者は記憶の中でも「小説や絵画」が集団的記憶の形成に関わることが、基本的に健常者の身体を基準としている点に着目している。

つまり、文章を書いた人の体と、それを読む人の身体が大きく違う場合、それらが互いに軋みあったり、あるいは逆に混じり合ったりするのです。(p.117)

見える人が「雰囲気の共有」によって出来事を「知る」のに対し、見えない人は「出来事の追体験」によってひとつひとつ細部をつみあげる、という両者の「知る構造」の違いについては、なるほどなと思った。

 

また、読書について、

「書き手の体と読み手の体を「混じり合わせる」場 (p.126)

という表現をしている。

生まれつき耳の聞こえない人が多くの本を通じて「聞こえる人の文化に精通」している例は、「自分とは違う体」を読書により経験し、その経験を積み重ねることによって、その体が「インストール」されるのだという説明がなされていた。

経験したことのないことを、読書によって知ることはよくある。経験したような気持ちになる本もある。ただ、「体がインストール」されるというのはすごい。

 

エピソード9の「分有される痛み」は、CIDPを患い「どもる体」をもつ人の話。突然、自分の体が堅くなったり、柔らかくなってしまって、体がどもってるみたいになってしまう複雑な運動障害だ。

「物や他者によってひきずられやすい体」。そうならないように、体を「逸らす」という対処方法が紹介されていた。

CIDPは、痛みを伴う。

本書のエピソード6から8のパートは、見えないけれど存在する体「幻肢」と、それが伴う「幻肢痛」について紹介されているのだが、この、欠損による痛みというのが、本当に痛そうであった。

痛みは、私の思い通りにならないものです。痛むとき、私たちは「持って行かれた」ように感じます。けれども、そもそも体とは「持って行かれている」ものなのです。自分の思い通りに操ったり、使いこなしたりできるようなものは、体ではない。体とは私にとって、本来的に未知なものです。にもかかわらず、そこから出られない。それが生きるということです。(p.219)

そう述べつつも、著者は「私だけ」という発想をやめるように「分有の発想」について紹介している。「私の痛み」から「私たちの痛み」へと考え方をあらためるということ。

 

本書を読んでいるとき、記憶というのは、こんなにも体の動きに結びついていて、しかも多重なものなのかと驚きの連続だった。

健常者と呼ばれる自分であっても、病気のときなどは体を強く意識する。きっと、「欠損による痛み」はそのとき痛みを感じるようなことがずっと続くのだろう、と思うが、そうした想像をしつつ、この事象を文字で書き記して残した意味を思う。

エピローグに書かれた、著者の思いに強く共感する。

身体の考古学なるものがあるとすれば、いつかそのような視点で読まれることは、著者にとってはこの上なく悦ばしいことです。そしてできることなら、単なる「過去の一時点における体の記録」としてではなく、「賢者たちの知恵の書」として読まれたい。つまり未来のその時代を生きる体たちにとって、何らかの手がかりや道筋を示す書物になっていたらいいな、と思います。(p.274)