「のんき」と輪郭

少し前のことだが、数年越しの念願がかなって、東京にある書店Tに行った。

こじんまりとしていながらカフェとギャラリーが併設されていて、それでいて本棚は自分の思う「完ぺきな」状態だった。

そこには宇宙があった。

どの本も読まれたがっているように思え、自分が読みたかった本だという思いが生まれるような。興味あることも知らないことも混ぜこぜで、しかしちゃんと目に入ってくる。

この書店が素晴らしいのは、インターネットや知人や新聞など、色々なところから知って「読みたい」と思っていた本の実物が、ひとつ残らず「あった」ことだ。

実物を見て結果買わなかったものもあったが、代わりにその近くにあった本が気になったり、平積みに目を走らせている最中に「あ、これ買おうと思ってたんだった」という本が目に入る。手に取って見ることのできる重要性を感じる。

 「本と出会う」場としての書店が話題になっているけれども、本当に出会うべき本が目に飛び込んでくるには、見る側にもある程度「慣れ」が必要だ。しかし今回訪れた書店はそうした訓練は必要がない気がした。主張があるわけではない。ただ、訪れた人が求める宇宙がちゃんとある。別格だと感じる。

 

そんな「完ぺきな書店」で買った数冊の中に、いま自分が出会うべき本があった。

ガケ書房の頃

ガケ書房の頃

 

いわゆる新刊ではなく、何度も他の書店で見かけて知っていた本である。ただ、この日は背表紙が「光って」見えた(棚に差さっていた)。

2018年秋、本書に所収されているエピソードを元にした絵本が刊行された。その際に、元の文章がウェブで無料公開されたので読んでいたが、とても面白かった。背表紙が光った瞬間、そうしたことも思い出された。

 人前で話さないというのは、自分も近い経験をしているのでよく理解できる。幼稚園で「劇の主役をやりたい人?」とせんせいに言われたとき、一人だけ絶対に手を挙げないような子どもだった。しかしそのせいで、なぜか主役になってしまったということがある(人生最初に感じた理不尽)。

 

ガケ書房の頃』は、そんな「普通の子どもと違う生き方をしてきた」著者の自伝である。大学受験に失敗して家出、さまざまな職業を経験した紆余曲折ののち、「自分が一生やる仕事」として始めた新刊書店が「ガケ書房」だ。

回り道をしながら自分の本当にやりたいことを探していく著者の姿に、この先どこに行きつくのか分からないと感じている自分を重ね合わせていた。本に関する色々な想いに共感しつつ、主人公である著者とともにこの本の中に流れる時を過ごした。それは、日常から浮遊できる、とても幸せな時間だった。

ガケ書房でよく売れる本の傾向は、生き方を照らしてくれるような本だ。

<中略>

僕はその出会いを提供するために、入口をたくさん作る。普段のなにげない日常生活の寄り道となる入口。それは、僕が子どものころにこま書房で夢中になった、違う世界への扉だ。(p.155)

書店や図書館は、世界の入口だということは、よく言われるし、自分もそう実感しているひとりである。未知の世界が本としてそこに存在し、文字通りその「扉」を開くも開かないも自由だ。

店はお客さんを選ぶことはできないが、お客さんは店を選ぶ。比べたりもする。ブランド戦略で結果的にお客さんを<セレクト>している店もあるが、僕は欲張りなのであらゆる人に来てもらい、楽しんでもらいたい。万人に受ける品揃えの店という意味ではない。いってみれば、店内に入ったら童心とまでいかなくとも、地位や立場や見栄を一時的にでも忘れて、気持ちを解放できるような店。

<中略>

かっこよく言えば、確認と発見と解放を棚に並べておきたい。(p.156)

「確認と発見と解放を棚に並べる」とは、なんと的確な言葉だろうか。自分が感じていたことを、こんなにぴったりとした言葉にできるのかと驚いたし、嬉しかった。書店での購買行為を「確認の買い物」と「発見の買い物」と区分けしていることも面白い。

 

いいものに触れるといいものを作りたくなる。いい文章、いい映画、いい音楽、いい絵、いい漫画、いい人、いい店。自分にできるとかできないとか関係なく、いいものを作りたいという輪郭が生まれる。(p.160)

 「文化」というものの及ぼす作用を端的に表したいい言葉だなと思う。いいものに触れてできた「輪郭」が、ぼやっとできてきたとき、その輪郭について取り急ぎ誰かに語ることは大切だと思う。本や映画の、批評じゃなく感じたことを。音楽を聴いて思ったことを。いい人に会った感動を、誰かに伝えること。そうすることで「輪郭」は、どんどん濃くなる気がする。

 

本屋で買った本は、全部お土産だ。(p.237)

世界への扉を自分のものとして持ち帰ることができるとは、本とは不思議なものである。時には「なぜこれを買ったのかな」と思うこともあるが、「お土産」だと思えば納得もできる。そのときに感じた何かや、空気を持ち帰りたいと思ったのだろうから。

 

ガケ書房でのライブイベントのエピソードの中で、小沢健二氏の登場する部分は特に印象的である。

頑なに目の前の日常を死守することだけに懸命な僕の姿勢や発言を、小沢さんは、世界的に見たらそれはのんきな姿勢に映るけれども、そののんきさが実はいいんじゃないか、山を登ったり川を眺めたり散歩したり、それぞれの日常を全うすることが大事なんじゃないかなと話した。(p.228)

 「オザケン」は自分にとって特別なアーティストの一人であるが、そうしたことをさておいても、著者の「苦しかった時期」に救いとなったに違いないと信じられる。彼が発したという「のんき」というキーワードは、些細な日常のことでさえ右往左往してうまくいかない自分に対しても「それもいい」と許してくれる気がして、救われた。

 

読書という誤解され続ける行為のハードルを下げるプレゼンテーション(p.282)

このことについては、自分もずっと考えている。

本が世界への扉であり、その本がある場所は宇宙である、そうしたことを、体感できる者が、どうにかして伝えないといけないことなのではないかと。

 

本文を読み終えてぱらぱらと本書をめくり、織り込まれているカラー写真を眺める。これらの写真があまりにも「あの頃」感を醸しだしている。最初は「本当にもう存在しないんだな」と残念な気持ちで見ていたが、やがて行ったことがないのに「懐かしい」という気持ちへと変化していった。いい写真だと思う。

 

この本を読んで、自分のなかにも「何かいいものを作りたい」という輪郭が生まれたのは確かだ。その中身は、まだぼやっとしたり、はっきりして見えたり、不安定なようだが、いつか何かいいものを作りたい。

そして、それは苦しさを覚えるほど頑張った上でのことではなく、「のんき」に見える日常を送っているうちに「いつの間にか」見えてくるものだといい。

そんな風に思っている。