セッション23

食に関する話題で場が盛り上がるということは、よくある。

それくらい「食べること」は多くの人にとって重要な関心事であり、食べ物や店舗の嗜好が似通っている人とは親しくなれる気がする。

今回の課題本はそんな「食べること」を「考える」あれこれが詰まった1冊だ。

食べること考えること (散文の時間)

食べること考えること (散文の時間)

  • 作者:藤原 辰史
  • 発売日: 2014/06/23
  • メディア: 単行本
 

タイトルは「食べること」と「考えること」を繋げただけ、のように見える。

しかし、「食べることを考えること」「食べるを考えること」などとしてしまうと、まったく違う印象になってしまう。「食べること・考えること」「食べること、考えること」などとしても、また違う。

「食べること考えること」と繋げることによって、さらっと、軽やかに流れていく感じがする。2004年から2014年までの10年間に著者が様々な媒体で掲載してきた論考を集めたもので、統一感がないような感じもあるが、「食べること考えること」というタイトルによってまとまっている。内容はさまざまでありながら、農業思想史、農業工業史を研究してきた著者の関心は一貫しているということも感じる。この本のサイズもとてもよい。四六変型判というらしい。「固くないハードカバー」であることも手になじんで好ましい。読みたいときにすっと手に取れる気軽さがある。

 

わたしは、食べものをめぐる物語の抗争において緊急に必要なのは、「食べもの」を見直すことより以前に「食べること」の制度の再設計だと考えている。(p.21)

 ここで、著者が構想する「公衆食堂」が面白い。地元のお年寄りたちに聞き書きしたレシピをデータベース化し、改良して再現した料理や、地元の伝統野菜を使用した料理を提供したりする食堂である。孤食とも思われるような、ひとりで食べる客も受け入れる食堂。

公衆食堂は、さまざまな文脈が交差して網の目のようになっている情報ステーションであるから、ただそこにいるだけで、地域社会が張り巡らせた糸に触れていられるのである。(p.23) 

報ステーションであり、ただそこにいるだけで、地域と関われる場所は、まさに自分が仕事や生活の中で関わっていきたいと考えているところである。

著者はさらにフードコートの可能性について考察しており、これも興味深い。

1970年代のアメリカを発祥とするフードコートは、最初は大型のショッピングセンターの屋外に作られた休憩・食事のための施設だった。それが日本では1990年代後半から屋内型としてショッピングセンターの一角に作られるようになり、現在では「面識のない個人や集団が一定の場所に集まり、出入りが自由な空間」「ショッピングセンターと休憩所と店舗の狭間にあり、提供者である企業の意図からも遊離しやすい、なんとも不思議な場所」(p.29)になっている、というのだ。

著者がインタビューした、ある商業コンサルタントの言葉がこの空間の意味を言いあらわしている。

個食(個人の好みの食)で衆食(親しい人の語らいの場)を実現できる(p.36)

著者はまた、こうしたフードコートというスペースで読書会を開催することを提案している。開放的なスペースのに個人的な議論が生まれない、そんな場所で、あえてそこにテーマ性、議論を持ち込むということによって、何かが生まれるのではないか。

 

読み進めていくと、公衆食堂=公衆の食べる場所の提供は、著者が東日本大震災前から提唱しており、その根底には「誰にでも居やすい場所」が求められていることから、ということがわかる。

例示として挙げられているのが、海外旅行中にマクドナルドがホッとする場所だという<あるある体験>だが、そのことに共感を覚えながらも「誰もが羽を休められる止まり木」(p.78)とは、どういう場であるのか、ということを考えさせられる。

 

分類違いこそ、読書という行為を創造的な行為に変える最大のチャンスなのだ(p.108)

表紙やタイトルは、その本における顔やガイドのようなもの。とはいえ、読もうとする気持ちを起こさせるためか、内容に即しているかということより、キャッチ―さが優先されることもある。

直接手に取って内容を確認できないネット書店では、そのサイトでのジャンル分けやレビューにより判断して購入する人も多いだろう。

そうした分類分けされたネット書店での買い物は、「思いもかけない本との出会い」が店頭よりは少ないと思われる。著者は、タイトルで判断された分類分けが実際には内容と違っていたため、購入に至ったという逸話を用いて、「偶然の出会いが創造的行為を生む」ということを言っている。まさにそれこそが読書の醍醐味なのだと思う。

 

著者の興味は、一貫して「居場所」にあると感じる。

現代社会において、お金を払えば、身を置く場はたくさんあるように思えるが、そこが真の居場所となれるのかどうかが問われている。

次の言葉が胸に刺さった。

居場所を失った人びと、あるいは、それを失いつつある人びとのためにのみ、理想郷を描くことがわたしたちにはゆるされている。このとき、理想郷は、その人びとの生死を左右しかねない現実的課題を帯びてくる。労働を喜びに変える、という理想もそれだけでは単なる夢想にすぎない。経済、地域、生態系、そして文化に根を張ることによって、理想ははじめて現実的な力を開花しはじめるのである。(p.208)