セッション9
「平成最後の」という枕詞が何度も何度も使われた2018年。
今年の締めくくりセッションは90年代について。
京都の書店・誠光社の店長、堀部篤史氏の書いたエッセイである。
書店で探し当てたときに拍子抜けするほど簡単な感じの、薄い本だった。見ようによったら、「ちょっと値段のいい」ノートくらい。日記帳みたい。
しかし、薄いのは見かけだけで、内容はとても濃かった。
相棒が、本の帯の言葉に言及する。
表紙側には「スマートフォンのない時代へ」。
帯の背には「思い出と考察」。これは見落としていた。
実は、セッションの日の少し前に旅に出たのだが、その旅先でスマートフォンが故障した。行先と予定が決まっていた旅だったし、その少し前に通信会社の電波障害などがあったこともあって、自分は事前に行先の地図等を紙にプリントアウトしておいた。
そうした準備によって旅の最中は特に困らなかったのだが、困ったのは旅から帰ってきてからである。仕事が忙しいうえ、携帯電話会社の店舗の受付終了時間は早い。結局2日間ほど通信手段は自宅のWi-Fiのみ、という状況だったが、日常の中でスマートフォンがないという状態がとても不安だった。
もう「なかった」あのころには戻れないとつくづく思った。
いまあるものを捨てて過去にさかのぼりパラレルワールドに住むことはできないが、せめてゾンビ映画の序盤のような街でも飄々と生きていきたい。いらないものが増え続けるのならば、せめて本当に必要なものを取捨選択できるくらいは覚めていたい。そのためにはかつてわれわれには何がなく、代わりに何があったのかを思い出す必要がある。(p.16)
「考察」のための「思い出」。
なるほど、それであるから「濃く」感じたのだろう。著者と自分の思い出を行き来しながら、自分も考えていく。その作業の中で感じたことは、90年代は徹底的に「消費」してきた著者が、2020年を迎えようとするいま、「消費される」ことを嫌悪しているように思えるということだ。そのことに自分も共感している。
実を言うと「今度は堀部さんの新刊にしましょう」と提案があったときに、ちょっと怯んだ。著者の堀部氏も、版元である夏葉社の島田潤一郎氏も、相棒も、自分と同世代。そんな彼らが書いたことを読むと、自分の「痛い」ことまで思い出しそう、と考えてしまう。
岩波書店のPR誌『図書』に、「九〇年代の若者たち」というタイトルで島田氏がコラムを載せたことがある。掲載当時に読み、大きな喪失感を味わった。
島田氏の私小説的なエッセイだけれど、もう一つの側面として、その時代の文化と結びつく90年代の音楽というテーマもある。今回の課題本と関連がある気がしている。
ぼくが青春時代を送った九〇年代は、それよりも、音楽の時代だった。もっといえば、CDの時代だった。
(『図書』2016年10月号、岩波書店、2016年、p.11)
本文の中で、島田氏は 「このころによく聴いた」として、以下のアルバムを挙げている。
- 『LIFE』小沢健二(1994)
- 『ハチミツ』スピッツ(1995)
- 『東京』サニーデイ・サービス(1996)
- 『空中キャンプ』フィッシュマンズ(1996)
- アーティスト: 小沢健二,スチャダラパー,服部隆之
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
- 発売日: 1994/08/31
- メディア: CD
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※1990年代以降に再販されたものもあります。
そう、多くの「90年代の若者たち」は、これらのアルバムを聴いていた。
その頃はよく、CDの貸し借りをした。誰かの手で渡されて知ったものも多い。
普段は忘れているけれど、懐かしさというよりはその時に立ち戻るような気持ちになる曲たち。表向き、日常の中で見えなくなっているだけで、「あのころ」は簡単に「いまここ」になる、そのためのスイッチのような。
課題本に戻る。
同世代間に共通の姿勢や考え方があるとすれば、それは原体験となった音楽とは切り離せない。
《中略》
すでに出尽くしたヴァリエーションの新しさよりも、過去のアーカイヴ発掘が新鮮だった一九九〇年代に青春を過ごした僕にとって、決定的な影響力を持ったのはほかでもないヒップホップだった。過去の情報を引用し、並べ替え、別の意味を持たせる「編集」こそがクリエイティブな行為であるという発想の転換。それは音楽だけでなく他の分野にも応用できる「発明」だった。(p.99)
この後に続く「編集」論には、大きく頷いてしまう。
思い出すこと、考察すること。それにより未来をつくること。
少し年上の世代のアーティストたちは、「僕の見たビートルズはTVの中」(斉藤和義)とか、「僕があなたを知ったときはこの世にあなたはいませんでした」(「拝啓、ジョン・レノン」真心ブラザーズ)と憂う。
彼ら のように「間に合わなかった」世代とは、違う。
さらにそれ以前の、堂々たる「間に合った」世代とも、もちろん違う。
フラットで薄い。と見せかけてディープで濃い。
飄々と、パラレルワールドのような世界で生きている。
古いも新しいもなく、「いいものはいい」として引用と編集でつないでいく。
この先の未来をどのように編んでいこう。
どんな編み方があるだろうか。