セッション13

ここのところ、忙しいと言いながら内容的に重い本が続いたので、 少し読みやすい

「本の本」を課題本とした。

本を贈る

本を贈る

 

 

著者、編集、校正、装丁、印刷、製本、営業、取次、書店員、本屋。

 「本を届ける」職業の、10人の人びとによるエッセイ集である。刊行時から気になっていたのだけど、その時はしっくりこなくて、今年に入ってようやく手に入れた。

上の書影では、イラスト部分は赤色になっているが、刷を重ねるたびにその色を変えていて、自分が買ったのは緑色の二刷である。現在は三刷が出ていて、オレンジ色だそう。本づくりにおいて、そうした趣向を凝らすのも楽しいなと思う。

 

10人の語り手の中で、本(の中身)を「つくる」工程に関わる生業の人たちよりも、本を「届ける」工程により近い人たちの話を面白く感じた。初めて知る話が多かったというのもあるかもしれない。

 

装丁家の矢萩多聞氏の章に、小学校1年のときの新聞づくりのエピソードが書かれている。同じように自分も、新聞づくりに「はまって」いた。壁新聞ではあったが、毎日1号発行していた。誰よりも多く発行したいと思っていたのを覚えている。よくもそんなに書くことがあったものだ。でも、「紙に何かを書きつけ複製して人びとに配るという遊び」が、楽しくて仕方なかったという気持ちはとてもよく分かる。

 

子どものとき、一枚のビスケットができるまで、どれだけの人が関わっているんだろう、と想像して遊ぶのが好きだった。目の前のビスケットの材料や包装材をめぐって、頭の中で地球を何周も旅した。小麦粉やバターや卵に砂糖、プラスティック袋の印刷、縫製、原料の石油・・・・それぞれの場所にこんな人がいて、こんな一日を過ごしているんじゃないか。そう想像するだけで、なんでもないビスケットがなにものにも代えがたい宝物のように思えた。(pp.81-82) 

 

ビスケットから物語を想像する遊び。小さい時から、こんな風に物事を考えられたら楽しいだろうなと思った。

ここまでではないが、「自分の知らないところで生きている人たち」について思いをはせることもあった。

「あさ いちばんはやいのは」という童謡や、谷川俊太郎氏の「朝のリレー」がお気に入りで、そうした作品に触れ生活の息吹が感じられるような他人の生きざまを思うとき、きまって気持ちがざわついた。高架線路を走る電車から流れる町を見つめるとき、立ち並ぶビル群に一瞬見える人影や、並列で走る別の電車の窓によりかかる見知らぬ誰かを見つめたときも、同じような気持ちになった。生きている。それぞれに。私とは違う人生を。そんなことを確認させられるような気持ち。

 

製本屋の朝は早い。始業は八時。もちろんそれは作業開始の目安となる時刻のことで、機械の電源を入れたり、製本に使用するボンドを溶かしたり、諸々の準備のために一時間以上早く出勤するひともいる。スイッチを押してしまえば、あとはパンをかじったり、煙草を吸ったりして過ごしている姿も見かけるが、気の早いひとなどは本気で働き始めてしまっている。毎朝ギリギリに出勤している私は、そのそばを、遅刻したような気持ちになりながら、えらいなあと小走りする。(p.143)

 

本書で10人の人たちの人生を垣間見たが、本と向き合った時間が具体的に書かれていれば書かれているほど、ぐっと気持ちが入った。裏方であればあるほど、面白く感じた。

製本家・笠井瑠美子氏の語る工程には、中身に思い入れがなくてもきっちり仕事するという、職人たちの心意気を感じたし、「やりがい」のある仕事だけが立派なわけではなく、こうして仕事は仕事としてこなすことが「当たり前」とすることを、大げさでなく尊いと思う。

 

「本を贈る」というテーマにたいして、自分の仕事はそれではないと否定する人もいた。取次の川人寧幸氏である。

中間にあって、主体として「贈る」という気持ちにはならなかった。届けられたものは、次に届けなければならない。滞留させてはならない。一日が終わると荷捌き場には何も残らない。きれいさっぱり清々した気持ちになるが、その代わりに本には私たちのような労働者の痕跡はいっさい残らない。それでいいではないか。(p.178)

 

主体となることは無いと書いたが、主体といってもどこからが主体なのか、そもそもどこが始まりでどこに続いて行くのかなど、誰にもわからない。出版されたものは著者の手を離れていくし、読者たちがそこに何事かを投影し、あるいはそこからまた別の本に引き継がれることもあるだろう。一冊の本の寿命が人の一生より長い場合もよくあることだ。ある意味では取次であるかどうかにかかわらず、本に関わる誰もが中動態のような中にいるのではないだろうか。(p.202) 

自分も「本を届ける」という仕事にあったことがあるが、どちらかといえば主体ではなく、人の一生より長いスパンで考えて、次の世代にどう渡していくかということを考えていたように思う。

「どこが始まりでどこに続いて行くのかなど、誰にもわからない」

その通りであるけれども、であるからこそ、確かにリレーのバトンのように次世代に繋いでいかなければ、その時点で断絶されて終わってしまう連環なのだ。

 

本が物理的に空間を占有するものであるかぎり、スペースの問題は店舗であれ個人の部屋であれつきまとう。出版社の営業・橋本亮二氏の章にそのことが書かれている。

当たり前のことですが、売り場のスペースには限りがあります。売り込みをしに来る出版社は数えきれないほど。とうぜん、お店としても売りたい本はたくさんあります。何かの本を選ぶということは、他の本を選ばないということでもあるわけです。(p.220)

「選ばない」ということの難しさはずっと感じてきた。「選ばない」、つまり棚に居場所を与えない。もし現在棚にある場合は、棚から取り除くということである。本当はまだそこにいて欲しいとしても、苦渋の選択で「いま」需要の高いもの、要望のあるものを残さなくてはならない。「選ばない」ことを選ぶのである。

 

<本を通じて社会はもっといいものにできる。書店の棚を通して思いを届けることができる。そのために、粘り強く、あきらめずに各地の書店へ足を運び、丁寧に提案をつづける>(pp.225-226)

 

そのように自分も信じていた。いまも信じることをやめてはいない。

「仕事を通じて社会に貢献したい」というのは、ずっと以前から変わらない願いだ。その仕事が、本に関することであればなおよかった。

本のある場所で、必要とする人がきたときに備える。どちらかといえば待つ仕事。

しかし、同じ場所で待ち続けることに疑問を感じるようになる。この場から動かない限り、この場所を目指してきてくれる人以外に出会えない。それらの本を必要とする人たちは、もっと他の場所にもいるように思えてならなかった。

そうであるから、移動する本屋を営む三田修平氏の気持ちに強く共感した。

固定の場所、特定の文化圏で本屋をやっていると、本好きの人々に愛される「いい本」ばかりを追いかけてしまいそうになる。誤解を恐れずにいうと、ブックトラックは本好きのためのお店を目指してはいない。

<中略>

ブックトラックでは、何かに興味があって、知識や情報を知りたいという人に、本を通して何かを提供できたら良いなと思っている。(p.285)

 

本が好きとか好きではないとかではなく、当たり前のように生活に溶け込んでいてほしい。特別なものとして扱ってほしくない。そのような想いが自分にもある。

届けるというのもおこがましいが、本にまつわる空気に触れ、体験をしてもらいたい。

そういった意味で、外に飛び出して本の場所を作ったり、本にまつわる体験を色々な人に語ってもらったりということ、本書に書かれている移動式本屋のような取り組みも含めて、「本を体験する」ことは、もっと全国的に広まってほしいと思う。

 

本書は、主に「本好き」と言われる(自認する)人が手に取る本だと感じる。でも、さまざまな切り口で本への関わり方が紹介されているので、ふと手に取ったことで、本が好きでなくても、「仕事として本に携わること」に興味を持つ人が出てくるかもしれないと期待する。

 

誰でもいちどは、本のある空間を体験してもらいたい。そのうえで関わらないという選択があってもいい。しかし、環境によって「知らない」人が出てくるということは避けたい事態だと思っている。本の環境があるとないとでは、文化的にも生活的にも、あまりに格差が生まれてしまうと実感しているから。

どうしたら本のある場所を体験してもらえるだろう、ということはしばらく自分の不動のテーマとなりそうだ。

 

うっかりしていたが、このセッション読書会を初めて1年が経っていた。

初めのころの投稿を今読み返すと、手探り状態なのがよく分かる。

よく続いているなあと思う。相手あってのことなので、貴重な時間を割いて本の話につきあってくれる相棒に感謝したい。