セッション11

2019年は大著の積読解消ということになるみたいだ。 

440ページ。おそらく今までで一番長かった。

この本は1月からの宿題だったのに、結局2/3までしか読み終えないままセッションに臨んだ。(相棒は読み終えていた。さすがである)

災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

 

さて、この本は2018年の神保町ブックストリートで出版社のワゴンセールで買ったものだ。ずっと読みたいと思っていたので、喜び勇んで買ったのだが、なぜセールになっていたのかといえば、ちょうど同じころに6刷が出来となっていたから。なるほど。

刊行してだいぶ時間が経過しているけれども、最近訪れたいくつかの書店では目立つところに一冊は置いてあった(探しているわけではないのに目に入るので、目立つところという認識)。持っている未読本を書店で見かけると嬉しくなるのはなぜなのだろう。 

 

原題が "A PARADISE BUILT IN HELL:The Extraordinary Communities That Arise in Disaster" 。これを「災害ユートピア:なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」とした邦訳したのは秀逸だ。読み終えてあらためて思う。

かつての自分が「災害」を思うとき、それは関東大震災や、阪神淡路大震災東日本大震災などの大地震およびそれに付随して起こるものであった。

しかし今では、近年の九州や広島での水害、台風による停電被害なども経験し、ありとあらゆる自然災害がいつどこに起こってもおかしくないのだと思っている。

きっと、2010年に初めてこの本が出たときに読んでいたとしたら、今この時より全く違った読み方をしていた。フィクションを読むように読んでしまっていただろうと思う。

それというのも、ソルニットの書く文章は取り扱う内容のわりに読みやすいのだ。物事に対峙してそれを「伝える」ことへの姿勢が原文にも表れているのだろうと想像する。

とはいえ、440ページである。

セッションの後も読み続けていたが、最後の1/3パートが自分には結構重たくてスピードダウンしてしまった。読み終えて、こうして書くことができてよかった。

 

あなたは誰ですか?わたしは誰でしょう? (p.9)

この問いかけは、プロローグだけでなくエピローグにも登場する。

危機的な状況において、この点を確認することが生死を分ける場合もあるという。しかし、人が社会で生きていく以上、常に問いかけ続けている問題でもある。

 災害においては、「人間の本質」が問われるのだ。

 「人間の本質」という言葉は今では流行遅れになっている。この言葉に暗示されるのは、固定した性質、すなわち普遍的で安定した自己である。だが、もし世の中には文化や環境により形成された多くの"人間の本質"があり、一人一人の中にはそれが複数存在すると認めるなら、災害時に現れる"人間の本質"の大部分は、いつもの、または正常な我々の姿ではなく、単にそのような状況下での我々の姿を示している。<中略>

災害への反応は、部分的にはその人が誰であるかに左右される―たとえば、ジャーナリストには一般の人とは異なる義務があるーが、誰になるかもまた、その人が何を信じているかで大きく違ってくる。(pp.78-79)

 人間の本質、それは普遍的なことではなくて、一人の中に複数内在しており、状況によって表出されるものが変わる、というのは理解できる。

であるからこそ、「あなたは誰で、そしてわたしは誰か」という問いが出てくるのだと思う。見えてくる"本質"は、時には思いもかけないような、受け容れがたいものであるかもしれない。災害時には特にさまざまな“本質”が表れてくる。

本書で、著者はいくつかの災害の事例を取材し、また、それらをつなぐ先人たちの哲学や思想を紹介し、「災害ユートピア」について考察している。

 

人々は災害に遭った後、または目撃した後に、強いショックを受けると同時に「何か自分にできることをしなくては」という気持ちになる。相互扶助、利他主義。そうした意識が働く。そうした時によく言われるのは、災害時だけでなく「いつもすればいいのに」。

その疑問に対するソルニットの答えはこうである。

 1989年の大地震に続く数週間には、愛と友情がとても大切で、長年の心配事や長期的プランは完全に意味を失っていた。人生は今現在のその場に据えられ、本質的に重要でない多くの事柄はすべてそぎ落とされた。(p.16)

災害時には、人々は長期的ビジョンに立たないからだ (p.48)。

 

そう、その時は「今ここ」なのだ。

ソルニットはまた、災害発生後の「エリートパニック」について、災害学の学者の間で使用されている権力者たちが恐怖にかられて行う過剰反応のこととし、具体的な例を挙げて説明している。

災害により立場や生活がひっくり返されてしまい、不安な中で貧困層や白人以外の住民が混乱に乗じて犯罪を繰り返しているという「妄想」噂を信じてしまい、拡散していく。

 

8年前の東日本大震災の後、得られる情報が少ない中で、誰もが「情報拡散」を行っていた。デマや間違った情報もたくさんあったと思うが、「必要な人に届けばいい」という祈りのようなものがあったように思う。

日本ですら、被災地での強奪や詐欺などの犯罪の話(噂話と思うが)はあり、あっという間に広まっていった。あれも、パニックだったに違いない。

 

セッションのときにも、本の内容とは別に、どうしても自分たちが「8年前」体験したことについての話になった。

その時に話したのは、自分は「以前」「以後」という分け方で時代を区切って考えるようになったということだった。

メキシコシティで組合を立ち上げたお針子のひとりが、息子に言われた言葉は、その当時の自分のことを言われているように思った。

『ママ、地面が揺れてから、ママの中は揺れ続けているんだね』(p.192) 

また、この本でのニューオリンズの例が9.11のマンハッタンとは違う傷を負ったことについて、「土地の人が変わらない生活を送ってきたこと」が挙げられていた。

毎日が変わらなく続くと信じていたときの災害。そのことの打撃は、実際の被害以上に人々を傷つけたのではないか。

 

私の場合は、その日を境に生活が物理的に一変したわけではない。しかし、発災前の自分に戻ることはもう二度とできないし、どういう風に感じていたかとか、考えていたかということも確認できない、以前の自分とは変わってしまったと、強く思ったのを覚えている。

 

もう一つ、この本を読んで感じたのは、「本だからまだ内容を受けとめられる」ということだった。

書かれている内容によっては、凄惨な災害の描写もあって、これが映像だったら自分にはとても目を向けることはできなかった。

写真や映像は、実物以上の力で迫ってくることがある。否応なしに目の中に飛び込んでくるものは、時に冷静な視点や思考力を奪う。文字だから、読めた。そのことについて、語ることもできた。

そう考えてみて、もしかしたら、8年が経った今でも、体験者であるほとんどの人びとが、東日本大震災について、充分に互いに語り合えていないのではないかという気もした。

メディアが仕立てた振り返りの映像。取材の上で選ばれたインタビュー上の語り。

次世代に継承するための記録としての体験談。

でも、そうした誰かのフィルターを通した体験ではなくて、もっと互いに直接話してみることが必要だと思う。

何年経っても、語り合うこと。対個人として、耳を傾けること。

 

あの時はここにいた。

その後、誰とどうした。

数週間はどうだった。

やがてこうなっていった。

そんなことどもを。

 

それは今後の教訓としてというよりは、誰もが社会の中で生きていく中で、発し続ける疑問の答えのひとつにつながると思うから。

 

あなたは誰ですか?私は誰でしょう?

そして、ここで語り合っている私たちの生きる世界を、どうしていけるでしょう?