セッション6

9月は秋の訪れというよりも夏の終わりを感じる月だと思う。

このところの日本は四季がなくなったと言われるが、それでも微妙に移り変わりは感じるもの。虫の声とか、朝晩の肌寒さとか。そして風の中には秋が潜み始める。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

今回のセッションのお題はこの本の中の「読書について」。

直球タイトルの古典である。

 

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。(p.127)

 

冒頭に近い部分。深いことを言っていると思い、ページをめくったら詳細な例示を出して「多読はいかん」「読みすぎたら考えない人間になってしまう」という警告がえんえんと続くので、あれれ、となるのだが、読み進むとどれも身に覚えのあるような気がしてくる。 

多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。(p.128)

まさに自分がそうである。

読んだ本は「読んだ」ことは覚えているけれど、「よかったと感じた」ことは覚えているけれど、じゃあどんなところが?どの文が?と問われたらゴニョゴニョしてうまく答えられないと思う。

すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の眼を用いなければならない。(p.129) 

読書によって他人の考え方を「取り入れ」たり、「考えてもらっている」という捉え方や、その「考え」に至るまでの道筋までは 「読む」だけでは分からない、という指摘は、読書における自分の態度や反応を思っても説得力がある。

 「読書はいいことだ」「本はすばらしい」と賞賛の言葉で語られるよりも、信用できる気がする。

 

 ショウペンさん(と相棒は呼んだ)は、「読むべき本」については、必ず続けて二度読むのがよいという。

さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。(p.138)

 「違った照明の中で見る」という言い回しが良い。

別の人間が読む、という場合も当然「違った照明」が当てられているわけだ。

誰かが本を読むたび、様々な色合いや光の強さの照明が点る。そんな光景を思い浮かべると楽しくなってくる。

読書なんて他人の道筋をたどるだけ、と言いながら、その道筋を照らすのは読み手であるとショウペンさんは言っている。つまり、読者がいてこそ本はに光が当たると言っているようなものである。

同じ本の中に収められている「思索」という論考において、脳を「思索向きの脳」と「読書向きの脳」に分けて考察しているが、そのことも面白いと思った。 

本が読み進められない時は「いま思索脳モードだから」などと言い訳できるかも。その逆も。

したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。(p.133)

  「読まない読書」ということについても、これまでにたびたび考えているのだが、ここでまた考えることになった。 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

 

「読書について」と並行して、ちょうどこれらの本も読んでいたところ。『もうすぐ~』の方では、『読んでいない本について~』のことを取り上げてもいて、カリエールやエーコが「読んでいない本」について語っている。

『読んでいない本について~』の中で、強く印象に残っているのは、<「読んだ」と「読んでいない」の境界>という部分。

 

セッションで次の課題図書を決める際にも、互いに「持っているか」「持っていないか」「読んだか」「読んでいないか」などは必ず確認する事項である。

「読んだけど忘れている」「持っているけど読んでいない」などと、境目がきっちりしていなくて、ふわっと位置している本にすると、対話が面白くなるような気がしている。

と、いうよりも、読書は選ぶところから始まっているのだとしたら、本への距離が違うだけで、すでに境目はないともいえるのか。

こんな理屈っぽいことを言っていると、ショウペンさんに「やはり読書は人をダメダメにするぞ」と怒られそうだけれど。

 

自分の根っこには「未知」なこととの境目をできるだけ越えやすくしていければ、その人の世界に対する見晴らしが良くなるし、そのための手助けをしたいという思いがずっとある。

では、読み尽くせない世界の中で、境目をなくしていく方法とはなんだろうか。

それはやはり、自分が照らした光によって見た道すがらのことを、別の誰かと語ることなのだろうと考えている。