ゴロツキはいつも食卓を襲う

友人から紹介されて気になっていた一冊を読んだ。

 

『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』
福田里香 /著、 オノ・ナツメ /イラスト、太田出版、2012年)

漫画や映画、小説などに登場する食の場面を分析し、そこに込められたキャラクターの性格や関係性、背景などを読み解いていく「フード理論」。

まず、下記の「フード三原則」が紹介される。

 1 善人は、フードをおいしそうに食べる
 2 正体不明者は、フードを食べない
 3 悪人は、フードを粗末に扱う

 

そして、50のステレオタイプフードを挙げ、解説していくのである。
たとえば

「なぜ、賄賂は、菓子折りの中に忍ばせるのか?」
「なぜ、カーチェイスではね飛ばされるのは、いつも果物屋なのか?」

 

などなど。
自分はそれほど漫画や映画に詳しくなく、へぇーなるほど、と思いはしても、あるある!と共感できる項目はそれほどなかったのだが、宮崎駿監督作品における食べ物の扱い方については目から鱗だった。そういう見方もできる。確かに。


もともとフィクションでの食事のシーンについては詳細が気になるほうだが、それがきちんと丁寧に扱われていると確かにほっとするし、作品へのイメージはぐんと上がる。

これまで以上に食事のシーンを注目し、深読みしていくことになりそうだ。

バンドをやってる友達

雑誌の漫画特集で紹介されていて、気になっていた『緑の歌ー収集群風』上・下(高 妍/著、KADOKAWA刊、2022年)を読んだ。

 

台湾にいる少女・緑(リョ)が主人公で、とにかく日本のカルチャーが出てくる。半分は著者の実体験からくる内容らしい。
飛行機で3時間の距離だけど、日本→台湾はどこか海外で、台湾→日本は手を伸ばせば届きそうな憧れの地なのだろうか。
若い頃に出会った韓国人の旅行者もそうだった。日本の映画が好きで、日本に憧れて、日本にやってこれてうれしいと言っていた。
恋愛ものだと紹介されていたけれど、本当に彼女が恋していた対象は日本の文化だったのではないかと思う。それほどに日本の特にポップミュージックへの想いが強い。
『風をあつめて』、『海辺のカフカ』、『ノルウェイの森』、『リリイ・シュシュのすべて』。
細野晴臣はっぴいえんど村上春樹ゆらゆら帝国。私もそれらは自分で知ったわけではなく、若いころ友人たちに教えてもらったものだった。自分だけでは出会えなかったであろうものたち。

緑が恋した人はインディーズバンドのvo&gをやっているのだが、アルバムタイトルが「間隙(sukima)」だったりして、色々繋がるものだと驚きながら懐かしむ。


だいたい夜は独りで家の中でろくでもない事考えてるあいだに終わっちゃうね。

小さなまちの奇跡の図書館

ブログ投稿に3年空いてしまった。

その間も、読書会は続けていたのだけど、お互い忙しくて振り返りをしなくなってしまっていた。1行でも書けばよかった、もったいなかった。

 

2013年最初の本はこちら。

帯文に「まちが変わる 人生が変わる」とある。

自分自身、図書館に出会って人生が変わったひとりであるので、実感できるが、おそらく図書館にクロスオーバーしない人生もあると思う。

 
ちくまプリマー新書で書かれたことの意味について。同シリーズは
「プリマー=入門書」という名にふさわしく、特に若い人たちに最初に手に取ってもらいたい新書として創刊(筑摩書房ウェブサイトより)
とあるように、物事の基本的な内容を読みやすく手に取りやすく、という目的で作られている。
前著で著者の猪谷氏が取り上げた紫波町オガールの取組みは、ある意味スペシャルな人たちのプロジェクトX、という様相もあって、大変わくわくと面白くはあったけれど、万人にとって興味があることかというと、そうではないかもしれない。

今回の鹿児島の指宿市の図書館をとりあげた物語は、「一見、どこの町にでもある普通の図書館」を運営する人々の奮闘の話だが、その図書館に起きたことを読むことで追体験するうちに、誰にでも「図書館はそういうこともできるのか」と、図書館の基本的な機能が理解できるような構成になっていると感じた。
 
本書では、指宿図書館のルーツもひも解いていて、そのことにより、指宿という土地のことが垣間見えるし、そこに必要であったものを「未来の人たちのために保管し残す」図書館の役割について、あらためて考えさせられもした。
 
運営されている人びとにとってみれば、「奇跡」でもなんでもなく、やるべきことをやっている感覚なのだろうけれど、身近な図書館の様子をみてみると、どうだろうか?
 
図書館は広い世界への扉だと思っている。
「当たり前を実践することで起きた奇跡」を紹介する本書は、その扉を開くきっかけになりうる一冊だと感じた。

セッション23

食に関する話題で場が盛り上がるということは、よくある。

それくらい「食べること」は多くの人にとって重要な関心事であり、食べ物や店舗の嗜好が似通っている人とは親しくなれる気がする。

今回の課題本はそんな「食べること」を「考える」あれこれが詰まった1冊だ。

食べること考えること (散文の時間)

食べること考えること (散文の時間)

  • 作者:藤原 辰史
  • 発売日: 2014/06/23
  • メディア: 単行本
 

タイトルは「食べること」と「考えること」を繋げただけ、のように見える。

しかし、「食べることを考えること」「食べるを考えること」などとしてしまうと、まったく違う印象になってしまう。「食べること・考えること」「食べること、考えること」などとしても、また違う。

「食べること考えること」と繋げることによって、さらっと、軽やかに流れていく感じがする。2004年から2014年までの10年間に著者が様々な媒体で掲載してきた論考を集めたもので、統一感がないような感じもあるが、「食べること考えること」というタイトルによってまとまっている。内容はさまざまでありながら、農業思想史、農業工業史を研究してきた著者の関心は一貫しているということも感じる。この本のサイズもとてもよい。四六変型判というらしい。「固くないハードカバー」であることも手になじんで好ましい。読みたいときにすっと手に取れる気軽さがある。

 

わたしは、食べものをめぐる物語の抗争において緊急に必要なのは、「食べもの」を見直すことより以前に「食べること」の制度の再設計だと考えている。(p.21)

 ここで、著者が構想する「公衆食堂」が面白い。地元のお年寄りたちに聞き書きしたレシピをデータベース化し、改良して再現した料理や、地元の伝統野菜を使用した料理を提供したりする食堂である。孤食とも思われるような、ひとりで食べる客も受け入れる食堂。

公衆食堂は、さまざまな文脈が交差して網の目のようになっている情報ステーションであるから、ただそこにいるだけで、地域社会が張り巡らせた糸に触れていられるのである。(p.23) 

報ステーションであり、ただそこにいるだけで、地域と関われる場所は、まさに自分が仕事や生活の中で関わっていきたいと考えているところである。

著者はさらにフードコートの可能性について考察しており、これも興味深い。

1970年代のアメリカを発祥とするフードコートは、最初は大型のショッピングセンターの屋外に作られた休憩・食事のための施設だった。それが日本では1990年代後半から屋内型としてショッピングセンターの一角に作られるようになり、現在では「面識のない個人や集団が一定の場所に集まり、出入りが自由な空間」「ショッピングセンターと休憩所と店舗の狭間にあり、提供者である企業の意図からも遊離しやすい、なんとも不思議な場所」(p.29)になっている、というのだ。

著者がインタビューした、ある商業コンサルタントの言葉がこの空間の意味を言いあらわしている。

個食(個人の好みの食)で衆食(親しい人の語らいの場)を実現できる(p.36)

著者はまた、こうしたフードコートというスペースで読書会を開催することを提案している。開放的なスペースのに個人的な議論が生まれない、そんな場所で、あえてそこにテーマ性、議論を持ち込むということによって、何かが生まれるのではないか。

 

読み進めていくと、公衆食堂=公衆の食べる場所の提供は、著者が東日本大震災前から提唱しており、その根底には「誰にでも居やすい場所」が求められていることから、ということがわかる。

例示として挙げられているのが、海外旅行中にマクドナルドがホッとする場所だという<あるある体験>だが、そのことに共感を覚えながらも「誰もが羽を休められる止まり木」(p.78)とは、どういう場であるのか、ということを考えさせられる。

 

分類違いこそ、読書という行為を創造的な行為に変える最大のチャンスなのだ(p.108)

表紙やタイトルは、その本における顔やガイドのようなもの。とはいえ、読もうとする気持ちを起こさせるためか、内容に即しているかということより、キャッチ―さが優先されることもある。

直接手に取って内容を確認できないネット書店では、そのサイトでのジャンル分けやレビューにより判断して購入する人も多いだろう。

そうした分類分けされたネット書店での買い物は、「思いもかけない本との出会い」が店頭よりは少ないと思われる。著者は、タイトルで判断された分類分けが実際には内容と違っていたため、購入に至ったという逸話を用いて、「偶然の出会いが創造的行為を生む」ということを言っている。まさにそれこそが読書の醍醐味なのだと思う。

 

著者の興味は、一貫して「居場所」にあると感じる。

現代社会において、お金を払えば、身を置く場はたくさんあるように思えるが、そこが真の居場所となれるのかどうかが問われている。

次の言葉が胸に刺さった。

居場所を失った人びと、あるいは、それを失いつつある人びとのためにのみ、理想郷を描くことがわたしたちにはゆるされている。このとき、理想郷は、その人びとの生死を左右しかねない現実的課題を帯びてくる。労働を喜びに変える、という理想もそれだけでは単なる夢想にすぎない。経済、地域、生態系、そして文化に根を張ることによって、理想ははじめて現実的な力を開花しはじめるのである。(p.208)

 

 

セッション22

なるべく実店舗の書店で本を買うようにしている。

それは、書棚を巡るのが好きだということもあるが、本を見る勘をなくしたくないという気持ちがあるから。

ただ漫然と本棚を巡っているようでいて、慣れていない店だったり、自分が疲れていたりすると、つるつると目の前を表紙が、背表紙が滑っていき、せっかく書店にいるのに何も買えない、何も得られないことがある。

自分に合った本を見つけるには、それなりに書店トレーニングが必要だ。ましてや他人に合った本を見つけられるなんてすごいことだと思う。

記憶する体

記憶する体

  • 作者:伊藤 亜紗
  • 発売日: 2019/09/18
  • メディア: 単行本
 

今回の課題本は、書評などでたびたび取り上げられて話題になっていたので、タイトルは知っていた。

店頭で見た瞬間に「読みたい」と強く思った。正確には「読み合いたい」かもしれないが。坂口恭平による表紙カバー絵をはじめ、装丁の力だと思う。

手にして読んで、また、読んだ感想を誰かと語りたいと思うような本。

 

プロローグから引き込まれる。必ずコーヒーショップで原稿を書くという著者は、それを「コーヒーショップの法則」と呼ぶ。自分の場合、集中して書き物をするのは、自室の勉強机ではなく、居間のテーブルだったと思い起こす。

コーヒーショップの法則を支えているのは、私の個人的な経験の厚みだけです。

それはいわば、断崖にあらわれた地層のようなもの。地層がそのような順で重なっていることに、理由はありません。あくまで火山の噴火や地殻変動といった地学的イベントの結果として、そのような地層が出来上がっただけです。

同じように、私のコーヒーショップの法則も、私のこれまでの「書く」という経験が積み重なった結果、そのような法則らしきものができあがっているだけです。(p.4)

著者は続けて、こうした法則は「究極のローカル・ルールのようなもの」であると述べる。そうして、体にもローカル・ルールがあり、それらを記述することで、他には代えがたい固有性の成り立ちを解明しようとしている。

また、「固有性の圧倒」について科学として扱うということを試み、12人の当事者にインタビューしてまとめたのが本書である。

 

最初から最後まで、難しすぎると思うことはなかった。

また、障害を持つ当事者の話でありながら、読んでいて不必要につらいと感じることもなく、楽しく読めた。

それは、本書が全編を通じて分かりやすい言葉と読みやすい文体で書かれているということに加えて、それぞれのエピソードが大変興味深かったいうことも大きい。著者の「体の記憶」に対する探究心に自分の好奇心が呼応したものだと思う。

つまり、家の中とは、よい意味で「思い込み」が通用する空間です。(p.28)

こんな感じで、時折あらわれる独特な言い回しが「すとん」と意味とともに体に入ってくる感じが心地よい。

 

エピソード1は「メモを取る女性」は、19歳で全盲になった女性が、目が見えなくなってからもメモを取り続けることについて考察するものである。

目が見えなくなって、玲那さんは毎日が「はとバスツアー」になってしまったと言います。(p.43)

《中略》

結果として起こるのは、障害がある人が、障害がある人を演じさせられてしまう、という状態です。「障害を持った方としてのステイタスをちゃんと持たないと、どんどん社会不適合者になっていくなと思って、言葉で説明していただいたものを『はい』『はい』と聞いていました。『ちょっと坂道になっています』とか、毎日まいにちはとバスツアーに乗っている感じが(笑)、盲の世界の窮屈なところだったんですけど、それに慣れていくんです」。(p.44)

こうして「自分がとっちらかってしまった」彼女は、絵を描くことで自分のアイデンティティを取り戻していく。そこから、日常的に「書くこと」を通して、「他者が介入しない自治の領域を作り出す」方法を見つけた。それがメモを取ることなのだ。

メモを取ることは、すなわち「見えていた十九歳までの身体」と「現在の身体」を多重化させる行為である。その考え方に感動を覚える。

 

エピソード3の事故により左足膝下を失った男性は、切断した左足を積極的に使い 、自分の両足のことを「『右足くん』と『左足くん』は全然別の人です。」と表現する。そして、失われたはずの左足のほうが「器用」だという。

ここで、著者は「器用」と「機能」の違いについて考察するのだが、「器用」はマニュアル操作で「失われた機能を補う」ことなので、当事者にリスクもあると述べている。確かに、障害のある方がスポーツをする姿をテレビなどで見ると、確かに「なんて器用な」と感動を覚えることが多い。

しかし、オートマで動かせない体を、考えぬくことで制御しているのだとしたら、ここでいう「器用さ」は想像を絶するトレーニングの上に成り立っていることになる。

 

エピソード5の読書の例も興味深かったが、それは「アーカイヴ」につながる内容であったからということもある。

記憶とは必ずしも個人的記憶に限られません。たとえば、原爆ドームを見て太平洋戦争に想いを馳せる。実際に戦争をしている人にとってもそうでない人にとっても、この連想は日本人ならばきわめて普遍的なものでしょう。記憶は、複数の人間から成る集団や社会において、伝えられた理、共有されたりするものでもあります。(p.116)

そして、著者は記憶の中でも「小説や絵画」が集団的記憶の形成に関わることが、基本的に健常者の身体を基準としている点に着目している。

つまり、文章を書いた人の体と、それを読む人の身体が大きく違う場合、それらが互いに軋みあったり、あるいは逆に混じり合ったりするのです。(p.117)

見える人が「雰囲気の共有」によって出来事を「知る」のに対し、見えない人は「出来事の追体験」によってひとつひとつ細部をつみあげる、という両者の「知る構造」の違いについては、なるほどなと思った。

 

また、読書について、

「書き手の体と読み手の体を「混じり合わせる」場 (p.126)

という表現をしている。

生まれつき耳の聞こえない人が多くの本を通じて「聞こえる人の文化に精通」している例は、「自分とは違う体」を読書により経験し、その経験を積み重ねることによって、その体が「インストール」されるのだという説明がなされていた。

経験したことのないことを、読書によって知ることはよくある。経験したような気持ちになる本もある。ただ、「体がインストール」されるというのはすごい。

 

エピソード9の「分有される痛み」は、CIDPを患い「どもる体」をもつ人の話。突然、自分の体が堅くなったり、柔らかくなってしまって、体がどもってるみたいになってしまう複雑な運動障害だ。

「物や他者によってひきずられやすい体」。そうならないように、体を「逸らす」という対処方法が紹介されていた。

CIDPは、痛みを伴う。

本書のエピソード6から8のパートは、見えないけれど存在する体「幻肢」と、それが伴う「幻肢痛」について紹介されているのだが、この、欠損による痛みというのが、本当に痛そうであった。

痛みは、私の思い通りにならないものです。痛むとき、私たちは「持って行かれた」ように感じます。けれども、そもそも体とは「持って行かれている」ものなのです。自分の思い通りに操ったり、使いこなしたりできるようなものは、体ではない。体とは私にとって、本来的に未知なものです。にもかかわらず、そこから出られない。それが生きるということです。(p.219)

そう述べつつも、著者は「私だけ」という発想をやめるように「分有の発想」について紹介している。「私の痛み」から「私たちの痛み」へと考え方をあらためるということ。

 

本書を読んでいるとき、記憶というのは、こんなにも体の動きに結びついていて、しかも多重なものなのかと驚きの連続だった。

健常者と呼ばれる自分であっても、病気のときなどは体を強く意識する。きっと、「欠損による痛み」はそのとき痛みを感じるようなことがずっと続くのだろう、と思うが、そうした想像をしつつ、この事象を文字で書き記して残した意味を思う。

エピローグに書かれた、著者の思いに強く共感する。

身体の考古学なるものがあるとすれば、いつかそのような視点で読まれることは、著者にとってはこの上なく悦ばしいことです。そしてできることなら、単なる「過去の一時点における体の記録」としてではなく、「賢者たちの知恵の書」として読まれたい。つまり未来のその時代を生きる体たちにとって、何らかの手がかりや道筋を示す書物になっていたらいいな、と思います。(p.274)

 

セッション21

富山を旅したことがある。

水が美味しくて、だから炊いたお米も地ビールも美味しくて、お魚も美味しくて、とても幸せな旅だった。

旅をするならよい場所でも、住んでみると息苦しい。それは地方にありがちなこと。

パブリックの次に「ローカルで生きる」が関心事なので、この本は気になっていた。

どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜

どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜

  • 作者:藤井 聡子
  • 出版社/メーカー: 里山
  • 発売日: 2019/10/16
  • メディア: 単行本
 

つるつる、ざらざら、グレー(濃淡あり)、白。

この本に綴じられた紙はさまざまだ。明るいとは言えないグレーのグラデーションは、北陸の空を思わせる。

19歳のとき大学進学のために富山を出て東京に行き、大学卒業後に一度帰郷するものの、「映画を作りたい」と23歳で再び上京した「私」。

しかし、就職した映画制作会社を一か月で辞め、雑誌編集者となり6年間を過ごした後、29歳目前で富山へ帰ることとなる。

本当の夢はなんだったのか。本当は東京で何をしたかったのか。今となっては忘れてしまった。そもそも何もなかったのかもしれない。

《中略》

それは夢が破れてしまったからとか、東京に負けたからではなく、「富山に戻るということは、いよいよごまかしがきかなくなる」と思って、怖くて泣いた。

 いつでも手を広げて私を迎え入れてくれたはずの故郷は、東京以上に未知で、なおかつ逃げ場のない恐ろしい場所であることに、変える間際になって初めて気がついた。(p.39)

 「ごまかしがきかなくなる」。

その怖さに共感する。年齢が上がっているわりに経験値が追いついていないのではないかということとか、環境の変化とかもあるが、地方独特の「目」みたいなものだろうか。地方にいると、東京などの都会にいるときには感じない緊張感があるのは確かだ。

 

著者に関していえば、自分と文化的に重なる部分が結構ある。

岡田あーみんの漫画が好き(p.55)」なこともそうである。

お父さんは心配症 3 (りぼんマスコットコミックス)

お父さんは心配症 3 (りぼんマスコットコミックス)

 

 自分はギャグ漫画、お笑いの類に鈍い(笑いどころが分からない、引いてしまう)のだが、岡田あーみん作品については、振り切れすぎてて もう笑うしかなかったので、すごく印象に残っている。案外と寡作なところもミステリアスなところも含めて好きだ。

著者への影響は、本書の言葉遣いの端々にも感じられて、それがまた読んでいて面白く思える。たとえば、「歩くパワースポットのような人」(p.88)という表現であるとか。 

富山には「旅の人」という方言がある。それは文字通り富山を訪れた旅行客という意味もあるが、大概において、他県から富山にやって来た移住者を指す。

《中略》

「旅の人」という方言は廃れていくのかもしれないが、だからといって自分たちの中に排他的な気質がなくなるかといえばそうではない。

「富山のことなんて知りもしないくせに・・・」

富山に戻ってきた当初はよそ者として疎外感を感じていた私自身、今では県外から新規参入して来た人々の華々しい活躍に、陰湿な眼差しを向けてしあうこともある。自分が通い詰め、愛でてきた場所を部外者に荒らされるのが気に食わない。富山に根ざして生きようとすればするほど膨れ上がる縄張り意識は、私がかつて「鬱陶しい」「厄介だな」と思っていた類のものだった。(pp.102-103)

「風の人」は、「お客さん」というより、一瞬素敵な感じに思えるけど、どっちにしろ「あの人たちは別」という意味があるのだとしたら、排他性が分かりにくい分、厄介かもしれない。

著者は、そんな「風の人」が集うドライブインレストランを営む人を通して、間口の広い空間のことを考察する。

私は街に汎用性の高い枠組みを置くことが、さまざまな”旅の人”を受け入れることになるとは思わない。全国共通の白いハコを置いたところで、人や空気が澱んだり、交わったり、ぶつかりもせず、単に通り過ぎていくだけだ。本当の意味で間口が広く、フラットであるというのは、煮え煮えのアクを出すコミュニティ同士が、個性を奪われることなく平穏に共存していることだ。(p.107-108)

自分も、「ハコ」と人の集まりの関係性について、常々考えているのだが、その思いをこれほどスパッと言い当てられたことはなかった。

「煮え煮えのアクを出すコミュニティ」という言い方がすごくしっくりくる。

「アク」というのは著者のキーワードとなる言葉のようで、著者自身も「文章のアクが強い」と言われたりしている。確かに読んでいて時々「濃ゆいな」と感じる。「!」が多用されているのもあるだろうか。もちろん不快なわけではなく、むしろ痛快。

「本を作るのがおこがましいって言うけど、あんたは既におこがましいが。人に何かを伝えたいって思っとる時点で、おこがましいが!そのことをそろそろ受け入れられ。そして恥をかけ!」(p.118)

著者の母の言葉である。痛烈にして痛快である。読んでいて、言われた本人のように背筋がのびる気がした。くよくよとした自分の人生に関する悩みとは、たいてい「おこがましい」ものなのかもしれない。そう思うと開き直れる気がする。

 

とはいえ、基本的に著者は富山という地で文化的な渇望があり、ずっと鬱々としている。そうした時に、共通の語り合える話題をもてる人々と出会って、はしゃぐのも無理はない。「痒い所に手が届くカルチャートーク」(p.124)は、経験した者には「分かる分かる」と膝を打ちたくなる表現だ。

新しい知識や見え方を与えてくれる人との出会いは代え難く貴重だが、それとは別に自分が好きなことについて、「ツーと言えばカー」と話せるような人の存在は、楽に息ができる感覚で、ほっとする。相棒との本や音楽の話をするときの時間も自分にとってはそうなのだ。

彼らの話を聞いているうちに、私は外から来る風を受け入れて、自分の新陳代謝を促そうとするのも、敢えてシャットアウトして自分の場所の密度を高めようとするのも、フットワーク軽くこちらから外へ出向くのも、全部正解だと思った。要はどれを選択するかだ。(p.126-127)

自分はどうか、と思った時に、どちらかと言えば、「外へ出向く」方だなと感じている。外から来る風を受け入れられるような人にも、密度を高める人にも、憧れはするが、ふわふわと素敵な場所と素敵な人に出会いたい。そこで何かの種をお土産として持ち帰って植えたい、そんな気持ちでいる。

 

最後の方に出てきた、ケロリンで有名な富山の製薬会社社長・笹山氏の言葉はどれもすごくよかった。

「文化や芸術というものは、理性や論理では語れないと思います。ダメで、偏愛的で、マイノリティだったりする。だからこそ、それを受け入れる図書館や美術館には、公共性か必要だと思います。それは観光資源化という意味ではない」(p.202)

笹山氏の経歴は特殊だ。その各ステージごとに得難い体験をされたことがうかがえるが、そこに「閉じたコミュニティに埋没しない」「染まってなるものか」という強い意思、マイノリティでいたい、だけど疎外感を感じ続けているという矛盾。芸能史を研究し、著書も出されているということで、今後読んでみたいと思った。

 

「どこにでもあるどこか」を、本当の意味で味わうには、やはり富山を訪れるのが一番かと思う。

天気は変わりやすく折り畳み傘が年中手放せず、人々は京都につぐ閉じた心を持ち、魚と水が美味しくて山々も美しい。

 

私は以前訪れた夏の富山の風景を思いながら、今いる自分の土地のことを考えている。 

セッション20

今回は相棒推薦図書。

タイトルで「面白そう」ってなった。

PUBLIC HACK: 私的に自由にまちを使う

PUBLIC HACK: 私的に自由にまちを使う

 

取り寄せないとないかなあと思ったら、いつも行く書店(大きめではあるけど大型店ではない)に1冊あって、嬉しかった。

実際に本自体も軽やかでポップ(帯も含めて)で読む前から期待度が高まる。

 帯に書かれた「公共空間の過度な活性化でまちは窮屈になっていない?」という言葉、「そうそう」と頷いてしまう。

 

いくつかある自分の関心領域のひとつに「公共:パブリック」がある。
公共空間で人がどのように過ごすか、そんなことをずっと考えてきているけれども「まちづくり」「賑わい」という言葉ではしっくりこない。

逆に、「まちづくり」を命題として活動している人たちのなかには、「公共」という言葉に反発を覚える人もいるらしい。なかなか難しい。

 

そんなパブリックを「ハックする」とは?

見返しに書かれた定義には

PUBLIC HACK【パブリックハック】

公共空間において、個人が自分の好きなように過ごせる状況が実現すること。賑わいづくりとは異なる、そのまちらしい魅力をもたらすアプローチ。

とある。

「PUBLIC HACK」は、公共空間が「私的に自由に使える」ようになることによって達成されます。(p.4)

しかも、ただ勝手に使うだけじゃなく、周りの人びとはその様子を受け入れている状況。

禁止やルールだらけの「みんなの場所」は、誰でも使えるはずなのに、誰にも使われない空間になってしまう。

 

常識から解き放たれる痛快な公共空間の使い方(しかし単にゲリラ的なだけではない)の実践例も豊富で、自分も体験したい、実践してみたいと意欲がわく、そんな気持ちになる。

中でもお気に入りは、「夕日納め」(p.39)。

今の土地で、特に好きな時間は夕日の出るマジックアワーなのだ。ここに来るまで、こんな空を見たことはなかったし、もう来て数年経つのにいまだに感動する。

そんな、大切に思っている行為に敢えて名前を付けてみることで、さらに開ける感じがして、不思議だ。

相棒は「クランピング」(p.58)をやってみたいらしい。想像すると、なんだかしっくりくる。

まちなかの人気のないスペースをディスコ化する「URBAN SPACE DISCO」も大胆なPUBLIC HACKだと思った。

URBAN SPACE DISCOはそれらのスペースに対して「穏便使用権」を行使し、まちを「二毛作」している行為であるといえます。(p.6)

まちを「二毛作」する。

時間帯によって一つの店舗で別々の人が営業する、というのは聞いたことがあるけれど、その行為の大胆さとあいまって、面白くておかしくて笑ってしまった。

 本書でためになったのは、そうしたゲリラ的な利用を行う際に、場所に関わる法律を確認しているところだ。

法律や条例を丁寧に読む解くことで、許可や手続きを受けないで行う「グレー」な行為を、白と言いきれるようになるという主張は、すごく説得力がある。

引用されたグラフィティアーティストのバンクシーの言葉がぴったり。

it's always easier to get forgiveness than permission(いつだって、許可してもらうよりも後で許してもらう方が簡単だ)

(p.98)

「グレーゾーン」への対応は、自らの視点のもちかたにもかかわることなのだと気付かされる。

 

まちを私的につかう人たちの集合体で、公共空間はできる。

「PUBLIC HACKの作法」として提示されたなかで、本書の肝ともいえる一節がある。著者自身も「突き詰めるとこの一言に尽きる」としている言葉だ。

「私」と「私以外の誰か」の両方を意識する。(p.113)

自分と自分以外の人がいることを忘れない。

思いやる、というほどでもなく、心にとめるくらいの感じでよい。

でも、それが小さいことのようで、ほんとうは大切なことなのだ。

 

まちを上手に使うにはデザインが必要だと感じている。

違和感なく、ここちよく、「みんな」を意識しながら。

 

ふと自分の周辺を見つめてみれば、まちはスキマだらけである。

 

もっといろいろ、HACKしていかないと。