セッション7

秋が深まってきた。

セッションとブログを始めてちょうど半年が経った。

7回目、予定より一週ずれてのラッキーセブン回である。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

セッションは、いわゆる「本の本」(書店・読書・出版などに関する本)を課題図書にすることが多い。

けれども回を重ねていくうちに、「本の本」について語った回の次の課題図書は「本の本じゃない本」と設定するようになった。前回が『読書について』だったので、今回は「じゃない本」で社会学の本、というように。

 

今回は、読了からすこし時間が経って印象が薄れ始めていたので、時を戻すようにして直前に「後ろから」再読してみた。なんとなく、歩いてきた道を忘れ物を探しながら戻るみたいな感じがした。

 読む前から、表紙の写真が印象に強く残っていたが、理解のしにくい「社会学」というジャンルのことも含めて表現されている気がする。そして、小説家・星野智幸の帯文の言葉がこの本の性格を見事に言い表していると思う。

この本は何も教えてはくれない。ただ深く豊かに惑うだけだ。

惑う。

そうなのだ。もやもやする。タイトル通り、何もかもが断片的である。

まるで自分の思考のようで、だから、とても近くにも感じる。

だが、世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。(p.38)

 もちろん私たちはその十年という時間をまったく「共有」してないし、そのことで何かの感動があったわけでもない。そもそも私は、そんな当たり前のことを誰にも、語り手本人にも伝えていない。

 しかし私は、彼の十年は私の十年でもあった、というただそれだけのことが、私と彼のあいだに、何かの「会話」を、言葉にも感情にもよらない無音の対話を成立させているような気がするのだ。(p.143) 

相棒と本の話をしていると、時にそのようなことを感じる。

誰との間にも別の十年が流れているが、それが知らずに交差している場合もあるし、知ってて関わる場合もあって、不思議に思う。「ただそれだけのこと」であるのに、何とも言えない気持ちになってしまう。

こうした、本書に随所に出てくる「何事でもない」「当たり前」「たいしたことはない」などのフレーズは、読む者にネガティブでつかみどころのない印象を与えるかもしれない。

しかし、それらのフレーズの繰り返しは「当たり前」ということが実は凄い事実を示しているんだ、ということの強調になっていると思う。

「単純な事実として」知ってはいても、「気付く」には至っていないよ、ということ。 

 四角い紙の本は、それがそのまま、外にむかって開いている四角い窓だ。だからみんな、本さえ読めば、実際には自分の家や街しか知らなくても、ここではないどこかに「外」というものがあって、私たちは自由に扉を開けてどこにでも行くことができるのだ、という感覚を得ることができる。(p.82)

本は、知らない世界を見せてくれる窓で、自由な扉。

ドラえもんの「どこでもドア」のように、自分がいる場所からすぐさまに行きたい場所へ行くことができる。

ただ、行きっぱなしではなく「今ここ」に戻ってくることもできる。

  

本書の中で、著者の岸が「私にとってとても大切な物語」として紹介している絵本がある。 

 今年2018年の初めに亡くなったアーシュラ・K・ル=グウィンの作品。「空飛び猫」シリーズとして4冊邦訳されているうちの、3作目である。

 セッションの時にはお互いに「読んでない」と言ってさらっと流したが、気になったので、その後に所蔵している公共図書館で借りてきた。児童図書のコーナーにあると思っていたが、一般書の外国文学の場所にあって少し驚いた。シリーズがすべてそろっていたが、3作目までを借りて読んだ。

村上春樹の翻訳で、巻末には日本語では表現しきれない言い回しを丁寧に解説した訳注があり、さらに作品全体について言及した訳者あとがきがある。このような箇所があるので、大人向けと判断されたのだろうか。 

 やんちゃで生意気な普通の猫のアレキサンダーは、小さな「空飛び猫」と友だちになる。彼女は、空を飛ぶことはできるけれども、あることが原因で、口をきくことができない。言葉が出てこないのだ。

 アレキサンダーはそこで、彼女に、とても大きな「おせっかい」をやく。

 私はこの物語が大好きだ。それで救われたといってもよい。しかし、読む人によっては、アレキサンダーのしたことは、他者の内面への余計な介入でしかないかもしれない。(p.212)

 3冊を順に読んでみて、なぜ、岸が3作目を特に好きなのかが分かった。

 訳者の村上は、岸が「おせっかい」と言ったアレキサンダーの行為について

アメリカの猫はいろんなことをやらなくちゃいけなくて、大変そうです」(『素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち』p.54) 

 などとシニカルに言っているが、訳出から20年以上経ち、日本の猫だって同じ状況になっているのではないか、などと感じた。

「空飛び猫」の母猫ジェーンは普通の猫である。しかし、なぜか生まれた子猫たちには翼がある。第1作目で、母猫は自分の子どもたちに翼がある理由を悟るが、その理由はとても切なく、現代における人間の子どもたちにも通じると感じた。

岸が考えている「社会」というものが、この「空飛び猫」によってより浮かび上がってくるように思えた。そして、この「とても大切」な物語が強いテーマを持っているということを知るには、その前の2作を読むことも欠かせない。

こうして、本が指し示す別の本が、また別の本を指し示し、それらを経てまた元の本に戻るという循環を体験した。

ル=グウィンという人の社会に向けるまなざしや、訳出した村上春樹の考え方、それらをのみこんで「大切」と言い切る岸の思い。

 

本の中には過去に書かれた本がのみこまれている。

本は本を種として、また養分として芽を出し、花ひらく。

「読むというのは、どういう行為なのか」という問いに対して、あれこれ考えているうちに思いついたことである。

読むということは、それまでに人によって読まれたものも読むということだ。

のみこまれたものを、のみこんでいる。

私たちは、出ていって自由になる話と同じくらい、もといた場所に帰る話に惹かれる。(p.84)

 断片的なものたちに囲まれ、断片的に感じたり考えたり惑いながらも、

過ぎ去った十年に呆然としながらも、

本という四角い窓、扉を開けて「出て」知らない世界に行き、

知らないものを見る。

 

そして、もといた場所に帰る。

見てきたものを、のみこんで。 

 

 

セッション6

9月は秋の訪れというよりも夏の終わりを感じる月だと思う。

このところの日本は四季がなくなったと言われるが、それでも微妙に移り変わりは感じるもの。虫の声とか、朝晩の肌寒さとか。そして風の中には秋が潜み始める。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

今回のセッションのお題はこの本の中の「読書について」。

直球タイトルの古典である。

 

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。(p.127)

 

冒頭に近い部分。深いことを言っていると思い、ページをめくったら詳細な例示を出して「多読はいかん」「読みすぎたら考えない人間になってしまう」という警告がえんえんと続くので、あれれ、となるのだが、読み進むとどれも身に覚えのあるような気がしてくる。 

多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。(p.128)

まさに自分がそうである。

読んだ本は「読んだ」ことは覚えているけれど、「よかったと感じた」ことは覚えているけれど、じゃあどんなところが?どの文が?と問われたらゴニョゴニョしてうまく答えられないと思う。

すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の眼を用いなければならない。(p.129) 

読書によって他人の考え方を「取り入れ」たり、「考えてもらっている」という捉え方や、その「考え」に至るまでの道筋までは 「読む」だけでは分からない、という指摘は、読書における自分の態度や反応を思っても説得力がある。

 「読書はいいことだ」「本はすばらしい」と賞賛の言葉で語られるよりも、信用できる気がする。

 

 ショウペンさん(と相棒は呼んだ)は、「読むべき本」については、必ず続けて二度読むのがよいという。

さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。(p.138)

 「違った照明の中で見る」という言い回しが良い。

別の人間が読む、という場合も当然「違った照明」が当てられているわけだ。

誰かが本を読むたび、様々な色合いや光の強さの照明が点る。そんな光景を思い浮かべると楽しくなってくる。

読書なんて他人の道筋をたどるだけ、と言いながら、その道筋を照らすのは読み手であるとショウペンさんは言っている。つまり、読者がいてこそ本はに光が当たると言っているようなものである。

同じ本の中に収められている「思索」という論考において、脳を「思索向きの脳」と「読書向きの脳」に分けて考察しているが、そのことも面白いと思った。 

本が読み進められない時は「いま思索脳モードだから」などと言い訳できるかも。その逆も。

したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。(p.133)

  「読まない読書」ということについても、これまでにたびたび考えているのだが、ここでまた考えることになった。 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

 

「読書について」と並行して、ちょうどこれらの本も読んでいたところ。『もうすぐ~』の方では、『読んでいない本について~』のことを取り上げてもいて、カリエールやエーコが「読んでいない本」について語っている。

『読んでいない本について~』の中で、強く印象に残っているのは、<「読んだ」と「読んでいない」の境界>という部分。

 

セッションで次の課題図書を決める際にも、互いに「持っているか」「持っていないか」「読んだか」「読んでいないか」などは必ず確認する事項である。

「読んだけど忘れている」「持っているけど読んでいない」などと、境目がきっちりしていなくて、ふわっと位置している本にすると、対話が面白くなるような気がしている。

と、いうよりも、読書は選ぶところから始まっているのだとしたら、本への距離が違うだけで、すでに境目はないともいえるのか。

こんな理屈っぽいことを言っていると、ショウペンさんに「やはり読書は人をダメダメにするぞ」と怒られそうだけれど。

 

自分の根っこには「未知」なこととの境目をできるだけ越えやすくしていければ、その人の世界に対する見晴らしが良くなるし、そのための手助けをしたいという思いがずっとある。

では、読み尽くせない世界の中で、境目をなくしていく方法とはなんだろうか。

それはやはり、自分が照らした光によって見た道すがらのことを、別の誰かと語ることなのだろうと考えている。

 

 

 

よむあかり

本を読むためのデスクライトを探していた。

今の部屋には手元を照らす灯りはなくて、通常の部屋の電灯では手元が暗くなる。

自分にとっては道具という観点とインテリアのひとつという観点の両方から考えたい。そうそう買い替えるものでもないし。

数々の電気量販店へ行き、インターネットで検索しては悶々としていた。

なんとなく二択まで絞ったところで、この本に出合う。

 

幼年の色、人生の色

幼年の色、人生の色

 

 

 灯りという言葉があらわすものは、まず第一に読書です。すくなくともわたしにとっては、ずっとそうでした。

 本を読む自由が灯りのイメージと分かちがたいのは、子どものときにようやく本を読むということの魅力を知ったのが、すなわち灯りの下で夜の読書を覚えてからだったためです。(p.41)

長田は、夏目漱石漢詩なども引きながら、夜の灯りの下に「自由」を見る。 

「どこにもない言葉の世界への入り口」を探す。

このみじかい「ふみよむあかり」という文を読むと、夜と灯りと本、それらに照らさられる「自分」の存在を、感じずにはいられない。

  

おはなしのろうそく 30

おはなしのろうそく 30

 

「明かりをくれ!」という、「怖い話」がある。スペインの昔話である。

 むかし、あるところに、貧乏なやもめ女がいました。女には、男の子ばかり、七人の子どもがいました。一家は、小屋を借りて住んでいましたが、家賃がはらえなくなったので、そこを追い出されてしまいました。

 

あてどなく彷徨い歩いた果てに、女と子どもたちは、とある小さな村へたどりつき、幽霊が出るという空き家を紹介される。

 わたしどもには、失うものはなんにもありゃしません

肝がすわった親である。
 
新しい住処でくつろぐ親子だが、うとうとと眠りかけたとき、家じゅうが地震のようにあばれだす。
 
そのあと、家の中はおそろしいほど静まり返りました。そして、どこからか、いかにも苦しそうなうめき声が聞こえてきました。よく耳をすませてみると、声は、
「明かりをくれ!明かりをくれ!明かりをくれえ!」と、いっていました。

 

女は、いちばん年上の子に暖炉にある薪を一本渡して、こういう。

「行っといで。だれだか知らないが、あんなに明かりがほしいといっている。だから、この枝を持っていっておやり。こわがるんじゃない。気持ちをしっかりもっていれば、なんにも悪いことは起こらないからね」

言われもしないのに、きょうだいたちは兄だけでなく、全員がその「だれか」に明かりを渡しに行くのである。
 
明かりを欲していたのは、この屋敷のかつての主の魂だった。
ある時点で自らの生き方を反省し、そこから死ぬまでに聖書を最後まで読み通すという誓いをたてたものの、実行しないまま死のときを迎えてしまったのである。
 
大人の立場からすると「本を読むこと」が人の魂を縛りつけ、また別の人の助けによって解放される話に思えて興味深い。
この昔話では魂の解放において「あかり」はとても重要な役割を果たす。
 
 本とあかりと、自由。
「じぶんだけのあかり」を手に入れて、その灯りの下でどんな「自由」な言葉を探そうか。

 

積む積む

夏休みだった。

休み中に積読を少し解消しようと旅のお供に持って行ったのは以下の3冊。

本屋な日々 青春篇

本屋な日々 青春篇

 

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 

公園へ行かないか? 火曜日に

公園へ行かないか? 火曜日に

 

結論から言うと、『本屋な日々 青春篇』はあとがきだけを残してあとは全部読むことができたし、この本の内容をもとに、本周りの人たちと話すという体験もした。 『公園へ行かないか? 火曜日に』は、アメリカで多国籍でさまざまな年代のWriter(物書き)たちが学生生活を送る、というエッセイのような小説。

そのシチュエーションがちょっとした夏休み感もあって、生活から離れられる感じがよかった。こちらは半分くらい読み終わった。

『読んでいない~』については、今回一行も読めなかった。またいつか。

 

さて、この休み中に、また本が増えてしまったのである。

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

1冊目は実家の最寄り駅に一番近い新刊書店で買った。

時事的に話題になったことから、この本に収められている「子供をさがす」という掌編を知ったのだが、普通にちゃんとあったし、平置きされていた。

都市の駅前書店のラインナップはさすがであると思うばかり。

帰路の電車の中で読んだが、遠く昭和の農村のことと思いながら、それらの記述によって浮かぶ考えは現代に即したものに変換できる。平成最後の夏に「忘れられた」何かを思い出す作業。不思議な気持ちになる。

 

2冊目は馴染みの古書店で。

 

本の読み方

本の読み方

 

 このブログに書いている読書のセッションの根底にあるものは、突き詰めると「読書とは」「本とは」になる。この本を手に取らないでいられようか。

そう思っていたら、なんと直後に、この本の作り手のひとりに会うことになった。

我ながらこういうときのヒキは大変強い。

もともとは雑誌の連載だったらしく、ぱらぱらと「ヒロイヨミ」できる本。

 

アフリカの日々 (河出文庫)

アフリカの日々 (河出文庫)

 

3冊目。

東京の東の、まるで屋根裏のような「独立系」本屋Hで買う。

土日のみ開店している。

とあるZineを取り扱っていると知っていたので訪れたかった店だ。

板張りの床の上にまで直に本を置いてあるのは新鮮だった。

目当てのものと、他のZineも。そして別の本を買おうと手にしていたのだが、最終的にこの文庫本に目がいき、チェンジした。

『アフリカの日々』はいつか長距離を移動するときに読みたい。楽しみである。

自分は友人の部屋の本棚をみるような気持ちで、じっくりと棚をみて楽しかったが、同行していた友人のひとりは閉塞感を感じて息苦しくなってしまったようだ。

 

 

ちょうちょのために ドアをあけよう

ちょうちょのために ドアをあけよう

 

 4冊目。

また別の独立系本屋Rにて。ここはHとは逆に2階まで吹き抜けで開放感がある。

棚に同じ本が2冊・3冊と並んでいるのが、個人経営の小規模な本屋では珍しい気がして、なぜかを店主氏に聞いてみたら「在庫があるのを忘れちゃうので」という返答だった。

絵本もこの規模の本屋にしてはたくさん扱っているほうだと思う。この小さな絵本は今年出たばかり。

センダックのこうした絵は愛らしいので、楽しく頁をめくっていたが、ある部分で手が止まる。

おとうさんと おかあさんを つくるのは あかちゃん

もし あかちゃんが うまれなければ ふたりは どっちも ただの ひと 

この1日前に、ちょうど、きょうだいのところに生まれた赤ちゃんに会ってきたばかりだったので、そうか、「ただのひと」か、と打撃を受ける。

一度は棚に戻したものの、結局他の本を選ぶ気になれなくて、これを買った。

 

写真集―誰かに贈りたくなる108冊 (コロナ・ブックス)

写真集―誰かに贈りたくなる108冊 (コロナ・ブックス)

 

5冊目。

帰ってくる途中に通る町の、県内で一番大きい書店で買った。

休み中に会った人に教えてもらった本だ。この本をきっかけに、写真鑑賞に目覚めたという。ケルテスの「ON READING」も載っていた。ただし、原著だった。

薄いが、写真集のレビューの言葉が確かにぐっとくる。

入手できない本もたくさんありそうだが、読ませるガイドである。知らない世界を垣間見ることは楽しい。

 

アートの入り口 美しいもの、世界の歩き方[ヨーロッパ編]

アートの入り口 美しいもの、世界の歩き方[ヨーロッパ編]

 

 6冊目。

これも同じ書店で。

『写真集』と同じ芸術のフロアで、現在開催中の美術展関連フェアが展開されていた。その美術展には行こうと思っていることもあり、何気なく観たのだが、表紙の写真にひかれて開くと、表紙はロバート・キャパアンリ・マティスを撮ったものだと説明があった。

ヨーロッパのアートに関するガイド的な本だが、語り口が読みやすい。

海外のアートというと敬遠しがちだけれど、身近に感じられるようなエピソードと、写真に質感があって好もしい。一通り読めたなら、今後さまざまな美術展があっても楽しめる気がする。

 

こうして、

読んだ以上に増やして帰ってきた。

そしてまた積むのだった。

 

セッション5

学校に通っているときのように、きちんきちんと区切りのある生活ではない。

毎日毎日が流れるように過ぎていく。気付けば5年、10年、20年と。

カレンダーをめくっても月が切り替わった気がせず、「来年の話をすると鬼が笑う」なんて言う間もなく、笑うはずだったはずの来年が今になる。

連綿と続いていくかのような毎日の中で月一回開催される「読む時間」は、自分にとって程よいインターミッションになっている。

 

当初の課題本は違う本だったのだが、話していくうちに変えることになった。

いま、語りたい気がして。それは少し先ではなく、いまだという気がして。

読む時間

読む時間

 

 

読む人の姿を集めた写真集である。

 

あらゆる暮らしぶりの人々が読むときに見せる、きわめて個人的だが同時に普遍的でもある瞬間をケルテスはとらえようとした。

屋上で、講演で、混雑する街角で、学芸会の舞台の袖で―考えられるあらゆる場で、写真家のイメージはこの孤独な行為の力と喜びを称える。(p.7)

 

 

眺めていくと、人が本を読む姿を見ることはめったになく、珍しいことなのだと感じる。もっとも見ることがないのは、自分が読む姿だろう。 

  

巻頭に収められた谷川俊太郎の「読むこと」という詩、タイトルも含めてなんて的確なのだろう。一語一語が響いてくる。この写真集のために書かれたのか。

 

読む時間は共有できない。

その瞬間は個人的な体験として、本と向き合っているからだ。

まさに、谷川がいうところの「この世からふらふらと抜け出して」いる状態。

 

だが、その状態が、同じとき同じ場所に存在することは可能なのだ。

めいめいが違う世界、宇宙に行っているのに。

なんて不思議。(p.4)

 

読み終わって、自分の世界に戻ってきたとき、誰かと話す。

そうしてはじめて、読む時間は共有されて、完成する。

 

「読書」「読むこと」の中には、人に語ることまでが含まれる、ということは以前にも書いた。

相棒と読み合ってみて、本書の中に生きている人びとが、本を読み終わった後、その内容について誰かに話しただろうかと考えるようになった。

語ることも含む 「読むこと」をしたのだろうか。

 

 

こころの旅 (ハルキ文庫)

こころの旅 (ハルキ文庫)

 

 須賀敦子の文章に惹かれるのは、孤独を湛えているからだ。

池内紀は、このことを「孤独を引き受けた」(『こころの旅』p.219)と表現している。

 

そんな須賀が書いた「父ゆずり」は昨今話題の「親の本棚」のことや、自身の読むことに対する姿勢にもふれていて、「読む時間」と関連していると思う。

読むことに没入する彼女に、母は「また本に読まれてる。本は読むものでしょう」とたしなめる。

「本に読まれる」という言葉には、確かにどこか背徳感がある。

没入しすぎる自分は、自分をなくしてしまっているようで。

須賀はこの短編の最後に、父から手紙が欲しい。父と読むことについて語りたい、と書いている。

おそらく彼女にとって「読むこと」について影響を受けた父と語ることは、彼女の読書という行為を完成させるために必要だったのだと思う。

 

『読む時間』は、かつて、とある人から手渡されたものだ。

他に何を言われるよりも雄弁だったと思う。

読む人を見つめよ。読むことを見つめよ。

ここが私のいたところ。そしてあなたのいるところだ、と。

この人たちの中に私もいるかもしれないが、

確実なのは見る立場でいることのほうが多いということ。

そうして私もこの本を手渡した。

 

近い視点で読むのではないかと思って。 

 

セッション4

7月は互いに忙しかったようだ。セッションもすでに2度延期になったが、なんとかスキップせず開催できた。今回は刊行されると知った時から「この本はきっと読むのだろう」と思っていた本について話すことになっていた。

これからの本屋読本

これからの本屋読本

 

書店での佇まいが独特で、パッと見たときに存在感を放っている本である。積まれていても、表紙を見せて並べられていても、どちらも目を引く。まず、色合いや質感がいい。本のもつ上品なイメージをそのまま表していると思う。2回目の課題本だった『モンテレッジオ~』もそうだったが、深い緑色とかモスグリーンは「本」という感じがする。

この本を買った書店チェーンでは花森安治デザインの栞をつけてくれる。毎回色違いなので楽しみなのだが、今回は帯と同じ色のベージュの渋い色のものだった。偶然かもしれないけれど本に似合っている色。

本を読む時、気になる行に付箋を立てていき、余裕があれば同時にノートにその箇所を書きつけていく。後で見返したいときのためにページ数も見る。本書のページ数を見たとき、何種類もの手描きの数字が組み合わされていて味があるなと感じた。それらの数字の秘密は最後に知ることになったが、なんて心憎い演出でおしゃれなのだろうと感心する。随所にこうした読む人が楽しめるような、著者のしかけ・遊び心が感じられるのだ。

本書は大まかに3パートに分かれている。パート1は、本や本屋の魅力について。まさに我々が日々考えているような「読書」ということも含む。ひとつとんでパート3は、小さな本屋を続けるための実践的具体的な内容。その2つのパートに挟まれてグレーの紙に印刷されている部分が、本を仕入れる方法について書かれた「別冊」。著者は「必要な人だけ読んでほしい」と言っている。

自分は1→3→2の順で読んだ。専門用語の多いパート2「別冊」の部分は結構飛ばし読みしたと思う。

しかし、「別冊」についての感想を話しているうちに、以前参加した出版業界のある勉強会*1のエピソードを思い出して語りが止まらなくなった。後で知ったが、それはなんと2年前の同日のことだった。偶然にしてはできすぎている。

読み返した当時の日記には、そのイベント終了後に神保町の街中で知人に偶然会ったことが書かれている。交差点の手前で立ち話をしたらしい。そして、その人と話すことで次の本を思い出したとも。立ち話の内容は全く覚えていない。

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

 

その作品とは、バーナード・マラマッドの短編集に所収されている「夏の読書」である。本に関わっていく以上、忘れたくないと思っているとても好きな短編なのだが、今日またリンクして思い出されたことが不思議でもあり、読み返した。実は課題本のテーマともセッションで話した内容とも関連していた。「本を差し出す」仕事をするような人には、今後も紹介していきたい作品だと再確認した。

 

おそらくこの読書会でもずっと考えている根源的な問い、すなわち「本とは」「読書とは」。本書において、著者はその問いに対する答えを言い切っている。

本屋で過ごす時間は、いわば旅に出る前の、準備の時間に似ている。(p.20) 

その本から自分が読み得るものを読書だとするなら、すでに読書は、本屋の店頭ではじまっているのだ。(p.39)

「未読」や「積読」状態の本、つまり読んでいない本について考えたりするだけで、すでに読書と言えるのではないか、というのが最近の自分の考えである。選ぶところから既に読書なのだ。選んだ時点でもう立派に読んだことになっていると思う。

本に囲まれた空間に身を置き、その途方もなさに物理的に圧倒されることのよろこび(p.32)

この「物理的」に量がある空間に「身を置く」ということには大きな意味があると思っている。 自分にとって衝撃が強かった体験としては、本書にも紹介されていた「松丸本舗」だ。なくなってもう何年も経つのに、あの本棚の前に立った感じは忘れられない。

「書かれたもの」がコンテンツであるとするなら、 「読まれたもの」とはコミュニケーションである。(p.75)

 相棒は、「コミュニケーション」という言葉の使い方に慎重でありたいというスタンスだった。世の中でよく使われる言葉は便利で分かりやすいようでいて、使われれば使われるほど色々な意味を含むようになるので、自分が思った意図と違う受け取り方をされることもあると。

「書かれたものは読む人がいて初めて本になる」と言ったのは誰だったか。読む人が現れて読まれたとき、本というものが成立すると思うが、その現象に「コミュニケーション」ではない名前をつけることはなかなか難しい。だが、諦めずにちょうどいい表現を見つけてみたい。 

本を紹介するブログをやっている人も、ボランティアで読み聞かせをしている人も、みなその時間は「本を専門としている」(p.96)

本書を読み進めているとき、個人が運営している読書スペースを訪ねた。今思えば、その時の自分の態度は「かつて専門職だった」ふうを醸していて、とても嫌な感じだった。専門職の自負というのはつくづく厄介だ。以前人に言われたことだが、「他人に不寛容になるときは自分の調子がよくないときだから気を付けて」という言葉を思い出す。冷静になってみると、その不寛容な考えの根っこは分かっているのだが。

本の面白さを誰かに伝える活動に携わりはじめたとき、すでにあなたの「本屋」ははじまっている。(p.292)

少し本に興味があって、本に関する何かをしてみたい、それだけでも本屋だ。そう考えられることはとても気楽でいいな、と思う。

たい焼き屋さん、お菓子屋さん、お蕎麦屋さん・・・・たとえば何か看板にしたいようなことがあったら、そのことで「〇〇屋」と呼ばれるのは楽しい気がする。「〇〇屋」という呼称は、本書で「書店」と「本屋」を区別している(p.53)のと同じように、「人」寄りだと感じられる。

自分に関していうと、以前本の仕事をしていたときは、本書の第6章で取り上げられている誠光社・堀部篤史氏の意見に近い考えを持っていた。

 話を戻すと、恵文社のころより自分の面白いことをやりたいという姿勢が前面に出ているんですけど、内輪の店にはしたくないんですよ。
<中略>

自分が発信するものは内々に向けたメッセージかもしれないけど、パブリックなものもある程度保ちたい。(pp.255-256)

パブリックな空間で本やその世界を誰かに差し出すということ、そのことは、今でもやっていきたいと思っている。

出版業界を変えるには、内側に入り込んではいけないとも思った。(p.298)

当初「やや外側から」出版業界に関わっていたという著者の思いを知り、つい今の自分の状況に当てはめてしまう。

最近ある人が自分にかけてくれた言葉についても考える。

「どういう形であれ その世界とかかわるのが あなたにとっても その世界にとっても いいことに思う」

「本が人生や世界をよくしてくれる」と信じる立場でいること。

人生に「本を差し出すこと」を取り入れることで、世界を変えていけるんじゃないかという夢や期待をまだ持っていること。

  

それらが「いいこと」だと嬉しい。

通りすぎる街

7月はじめ。いまの居場所での1年が過ぎた。

実際の距離を大きく移動したのはさらに何か月か前だったのだが、ぴたっと定位置につけたのは7月だったから。本当にあっという間だった気がする。

ふと「こつん」と当たった小石に動かされたくらいのつもりでいて、思ったよりも大きく転がって、何もかも変わってしまったのだなと1年経ってようやく実感がわいている、そんな状態。

ちょうど1年前、異国から町にやってきた人がこの7月で去る。仕事上ずっと関わってきたこともあり、文字通りの異邦人として奮闘していた姿に励まされたり、やきもきしたり、自分に重ねていた部分もある。もともと期限付きであったとはいえ、予定より早く帰ってしまうと聞いて、淋しい気持ちになった。

「なんだか最初から1年で帰るつもりだったらしいよ」

その言葉を耳にしたとき、発言の中に残念に思う気持ちと「どうせ帰っていく人」というニュアンスを感じ取ってしまい、複雑な気持ちになった。

自分もそう思われているのだろうか。

ずっとそこにいると思うかを問われたことがある。

本当に分からない。ここは「通りすぎる街」なのか。

 

このまちでたくさん浮かんだ思いを言葉にしたい。目に見えるように、行動に移して、このまちの人たち、特に「新しい時代の人たち」に何かいいものを残したい。

そう思うのだけれど、新しい時代が来ようとしているのに、考えがクリアにならないし、行動もなかなか伴っていかない。

こんな自分は、どうにも不甲斐ない。

新しい青の時代

新しい青の時代