セッション3

紙の本を読む際に、我々は文字を読む。文字の書体を眺めている。

その「本における文字の書体」について、深く考えたことはなかった。

そういうわけで特に「精興社書体」を使用した作品に着目して現代文学を語るという、今回の課題図書のテーマはとても新鮮に思えた。

 

文字と楽園〜精興社書体であじわう現代文学

文字と楽園〜精興社書体であじわう現代文学

 

この本は、東京駅近くの八重洲ブックセンターで見つけた。

平積みではなく、面陳でもなく、棚差しで。薄めの背表紙なのに手に取ってみたのは、やはり使われていた書体の力なのかもしれない。

本書は、精興社書体が使用されている17冊の現代文学を取り上げつつ、その周辺の本の世界を丹念に考察している。

少し読んでみてすぐ、著者の書く文章に好感を持った。相棒も積読本として所有しているということで、3回目の課題図書はこれになった。

 

読んでいると気持ちがよくて、文字の魅力を表現しているような文章(p.24)

 

どんなひとが、いつ、どんなかたち(書体)で出会うかによって、作品の読みかた、感じ方が変わるなんて、とてもぜいたくな、奇跡のようなことではないか。(p.57)

 

「読む」ことで得られる「気持ちがいい」感覚、そのことをどう広めていくかということは、最近の自分のテーマとなっている。

自分が好きだと思う音楽を聴いた時のように、はっと気持ちが晴れ晴れする風景を見た時のように、考え方がすっきりする感覚は、読書の醍醐味と感じる。

印刷、複製された文字として紙のうえにゆるぎなく固定されているように見えても、受け取る人間にとって、ことばの意味や概念は流動化する。(p.67)

自分にとっては当たり前のことであっても、こうして改めて言及されると、なるほどと思うのだった。

紙上のことばが「固定されたもの」と思ってしまうということ。

インターネット上のコメントはいつか「改変」されたり消えることもあるが、紙に印刷し複製されたものは「不変」「残る」というイメージ。

しかし、実際には「不変」なわけではなく、同じ文面でも、受け取る人間によって、また、そのタイミングによっても変わっていくものだ、ということ。

 

読書とは、いくつもの人生を知り、生きかたを学ぶことだと言われるけれど、子どものときはちがっていた。知るとか、学ぶとか、そういうことじゃなくて、心のどこかで真剣に「いれかわる」という可能性に望みをかけていた。(p.120) 

 

自分も、 子ども時代が最も「本の世界に没入」できていたと思う。「本の虫」という言葉があるが、まさにその通りで読んでる最中は何も耳に入らず、親には怒られていた。

ただ、「いれかわる」という感覚はなかった。自分は観客だったと思う。映画のスクリーンを見ているような。

文字を追っているようで、こころを追っている。(p.128)

こころを追う。書いた人の、登場人物の。自分に気持ちの余裕がなかったりして追えなくなると、本を閉じる。心を閉じる。

本は読むのをやめたくなったら、自分のタイミングでやめることができる。

 

 

著者は、精興社書体という文字をトリガーとし、それを媒介として、異なる時代や作家をつなげようとしている。読み手は、その試みを追っていくうち、本について考えたり、読書という行為について、深く考えるようになっていく、そんな本だと感じた。

 

同じ本をふたりの人間が読むとすると、そこで読まれるものは、けっして同じではないと思います。それぞれが、本の中に自分をつれこむからです。

(中略)

だから本はいつも、ある意味では読者を映す鏡です。(p.140)

 

本書の一番の肝はここだと感じた。

いったん「本の中に自分をつれこむ」というのは、まさに「本になる」ことではないか。

 

今回のセッションにおいては、相棒はそんなに本の内容について深く触れることはなかったように思う。

自分はといえば、ついつい雑談になってしまいがちなので、その都度本題に戻さなくてはと考えていたのだが、今思えばその軌道修正は必要なかった。

 

読書会は、自分以外の誰かと同じ本を読み、互いに感想を述べあうことで、自分の考え方を確認する行為だと思う。相手の考えに照らされて、自分の考えがくっきりと見えてくる。

すでに同じ本を読み終えた、つまり一度その本にとりこまれた自分が話すことは、読む前の自分とは少し違う自分。

本の内容について、とことん考えを述べあう回もあれば、本の内容以外について、読んだことで変わった自分たちの考えを照らし合わせていく回もあっていい。

音合わせが、予定していたものと変わっていても、愉快な調べになっていけばよいのだ。