セッション8

9月に日帰りで京都に行った際、本の世界では有名な書店に立ち寄った。

日本全国にある「カリスマ書店」のひとつで、店長氏と話す時にも緊張してしまった。棚が何より雄弁だったから特に話す必要なかったのだけど、こんな棚を編集している人はどんな人なんだろうとつい話しかけてしまうのだ。 

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

 

 この本は、その店で棚差しになっていたのを手に取り、買い求めたものである。前々からタイトルは知っていて読みたいと思っていたし、この書店に来たからには「本の本」を買うのがいいと思って選んだ。

読み始めてすぐ、つらなる言葉に目から心まで吸い込まれていった。とにかく読んでいて心地よくて楽しい。こんな本を読んでいると言ったら、実は相棒も未読本だったということで、課題図書になった。

読めば心に残る。驚きがあり、発見がある。覚えてしまった言葉は、本そのものが手許にないときでさえ、楽しませてくれる。考えさせてくれる。その場ではあまり意味がわからなくても、よみがえってくるとき「ああ、そういうことなんだ」と納得したり感心したりすることがよくある。そしてこのプロセスが、われわれの心の風景を変えてゆく。心の地形も気象も変えてゆく。(p.45) 

「そうそう」という共感だけではなくて、「そういうことなんだ」という感じ。こんな言い方で表現できるのか、と何度も唸ったし、笑ったりもした。

「(筆者は)詩人ですからね」と相棒は言ったけれど、詩的な表現を用いつつも目線には対象への一定の距離が感じられると思う。

 

読書や本についての筆者の言葉は、個々に抜き取ってみてもインパクトがある。

「本は天下の回りもの」という植草甚一さんの名文句は、ぼくが人生の初期に出会った数少ない真理のひとつだが、まさに本こそはその本性上res publicaつまり「共有物」であり、世界のすべての書店がかたちづくる緊密で同時に拡散したネットワークこそ、地球規模ですでに実現されたふたつの「共和国」republicのうちのひとつなのだと、ぼくは思う。(p.21)

 この「書店という共和国」の発想は現実に本の世界に住む人を動かし、「共和国」という屋号の出版社が設立された。屋号の由来の一つが、まさにこの本のここの部分の記述だということを聞いたことがある。

そうした出来事も、すでに本のネットワークだという感動を覚える。

「本脈」からくるもの。

読書はもっぱらチャンス・ミーティング(偶然の出会い)であって、そこに発見のよろこびも、衝撃も、おびえも、感動も、あった。(p.67)

読書とは、一種の時間の循環装置だともいえるだろう。それは過去のために現在を投資し、未来へと関係づけるための行為だ。(p.4)

読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。(p.10)

この辺りは、最近自分の中でも固まってきつつある考えで、「読む」と「書く」は対であって、それがずっと続くから本はなくならない。

潮を打つように本を読みたいと、ぼくはいつも思ってきた。世界にむきあい世界に覚醒するための読書、遠くを見て遠い声を聴き遠くを知るための読書をしたい。(p.100)

筆者の文章に感じる距離感に心地よさを覚えるのは、「遠く」を見ているから。

何事にも近寄りすぎないで、さまざまな境界線の上にいたいと思う自分と似ている。

 

話とは、それ自体が贈り物だ。誰もが誰もにすべてを話すはずはなく、ある話が出てくるのは風に果実が落ちるような僥倖にすぎない。あるひとつの共同体でなく、たったひとりの人間を相手にしたときでさえ、その記憶は途方もない広がりをもっている。その中のごくいくつかの細部が、あるとき特定の誰かを相手にぽろりと話に出て、聞き手の記憶に転送される。聞き手は聞き手でそのつもりがなくても自分の理解に合わせて切り取り、文字に記す。こうして降り積もるアーカイヴが、さらなる編集を経て、本にまとめられる。その本を読んだ人間は、ふたたび勝手に自分の趣味・志向・問題意識などにしたがって、本を再断片化し、理解にひきこむ。(pp.132-133)

筆者は、冒頭から「本は読めないものだから心配するな」と言っている。

すなわち、本は読みたくても読めないものだし、せっかく読んだものは忘れてしまうものだと。

しかし、その本が自分にとってどうだったかの「プロセス」を重視しており、「残ったもの」が何であったのかについては、追究し書き残すことを推奨しているように思う。 

そのプロセスの過程で、人に話す・語るが入ってくる。

語ることがアーカイブにつながる。

 

「物体としての本」のこと。

本のかたちをとれば、書店で売られたり、図書館に並べられたり、個人の部屋の中でも、本棚に立てられたり、机に積まれたり。モノとしてのそれなりの「お行儀」が決まってくる。もちろん流通や収蔵のための便利さを考えれば、本という形態は圧倒的にすぐれている、僕は本が大好きだ。(p.165)

以前に『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』を読んだ回で、相棒が「誰かに連れて行ってもらうために本はこのかたちになった」と言っていたのを思い出す。

読んで話したこと、話したことでまた考え付いたことをアーカイブしておくことは大切だ。

 

最近目にした、絵本作家の五味太郎氏と哲学者の國分功一郎氏のトークの再録がとても面白くて、本だったら付箋をいっぱいつけてしまいそうな内容だったのだが、そこでも「本のかたち」については述べられている。

五味太郎×國分功一郎トークイベント「絵本と哲学の話をしよう」@銀座蔦屋書店2018年9月28日 イベントレポート 2/4

以下、五味氏のコメントから。

本っていうのが大好きだから、どうしてもなんか本に落とし込みたい。

好きなんだよ。本て、あやしいじゃない。

人っぽいんだよね。見えるんだけど、実はおへそは見えないというか。

本っていう形が、うまいこと考えたな、というか。これ、古いかたちだよね。「安心して」みたいな形。

「本が好き」と「本のかたち」が関連していることがはっきりと示される。

面白い。本が好きな人たちが人みたいな本たちをつくる。

 

移民のこと、翻訳のこと、旅の話、教育について。

本書における多岐にわたる話題はどれも興味深く、そのひとつひとつが自分に与えたインパクトについて話していけば何時間あっても足りず、きりがない。

全てを引用したいくらい。

そんな状態だったのだが、限られた時間のなかで、どうしても自分がいま言いたいと思っていたことを、忘れず伝えられたのはよかった。

分析的に考えるなら、それはまちがいなく図書館の夢なのだろう。つまり、野原に咲く花は、ひとつひとつが一冊の本だ。その本のあいまを自分が歩いてゆくのだが、手をふれないかぎり、本の内容は解放されない。

<中略>

何か美しさを感じてはいるのだ、たしかに。この野は異様な光でみたされている。だが自分のやっていることはといえば、結局はただ本に手をふれ、言葉を浮遊させ、言葉たちの群れを作り、またその群れによって置き去りにされるのをじっと傍観し、耐えているだけ。(pp.250-251)

おさまりのよい形をしながら、本というのはどんな花を咲かせるか分からない種を持っている。触れた人によって解放される。

触れたところで、作用しないこともある。いや、「自分には作用しなかった」と思ってしまうほどに浮遊してつかまえにくいもの。触れたのに、掴めなかった、置き去りにされた、という気持ちになるもの。

映画を見た、少しを記憶し、多くを忘れた。忘れたことは仕方がないので、記憶していることをきみに語ろう。そのようにして語る内容こそ、どれほどまずしくつたなくても、われわれにとっての映画そのものなのだ。(p.159)

本は読めないものだし、読んだところで覚えられない。

けれど、自分は誰かと読んで記憶していることについて語り合うということを手に入れた。それは本当にすごい贈り物だ。

断片的なものを、欠片を、浮遊する何か美しいものを、声の花を、きれいだとか面白い色だねと言い合って、風に飛ばされていくさまを見送ってもいいではないか。

声の花たちに置き去りにされたとしても、一人じゃないから、そこには不思議な楽しさがある。

多くを忘れてしまっても、語ることによって心の地表や気象に少しの変化があったと確かに感じられる。それが、われわれにとっての本そのものなのだ。