セッション7

秋が深まってきた。

セッションとブログを始めてちょうど半年が経った。

7回目、予定より一週ずれてのラッキーセブン回である。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

セッションは、いわゆる「本の本」(書店・読書・出版などに関する本)を課題図書にすることが多い。

けれども回を重ねていくうちに、「本の本」について語った回の次の課題図書は「本の本じゃない本」と設定するようになった。前回が『読書について』だったので、今回は「じゃない本」で社会学の本、というように。

 

今回は、読了からすこし時間が経って印象が薄れ始めていたので、時を戻すようにして直前に「後ろから」再読してみた。なんとなく、歩いてきた道を忘れ物を探しながら戻るみたいな感じがした。

 読む前から、表紙の写真が印象に強く残っていたが、理解のしにくい「社会学」というジャンルのことも含めて表現されている気がする。そして、小説家・星野智幸の帯文の言葉がこの本の性格を見事に言い表していると思う。

この本は何も教えてはくれない。ただ深く豊かに惑うだけだ。

惑う。

そうなのだ。もやもやする。タイトル通り、何もかもが断片的である。

まるで自分の思考のようで、だから、とても近くにも感じる。

だが、世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。(p.38)

 もちろん私たちはその十年という時間をまったく「共有」してないし、そのことで何かの感動があったわけでもない。そもそも私は、そんな当たり前のことを誰にも、語り手本人にも伝えていない。

 しかし私は、彼の十年は私の十年でもあった、というただそれだけのことが、私と彼のあいだに、何かの「会話」を、言葉にも感情にもよらない無音の対話を成立させているような気がするのだ。(p.143) 

相棒と本の話をしていると、時にそのようなことを感じる。

誰との間にも別の十年が流れているが、それが知らずに交差している場合もあるし、知ってて関わる場合もあって、不思議に思う。「ただそれだけのこと」であるのに、何とも言えない気持ちになってしまう。

こうした、本書に随所に出てくる「何事でもない」「当たり前」「たいしたことはない」などのフレーズは、読む者にネガティヴでつかみどころのない印象を与えるかもしれない。

しかし、それらのフレーズの繰り返しは「当たり前」ということが実は凄い事実を示しているんだ、ということの強調になっていると思う。

「単純な事実として」知ってはいても、「気付く」には至っていないよ、ということ。 

 四角い紙の本は、それがそのまま、外にむかって開いている四角い窓だ。だからみんな、本さえ読めば、実際には自分の家や街しか知らなくても、ここではないどこかに「外」というものがあって、私たちは自由に扉を開けてどこにでも行くことができるのだ、という感覚を得ることができる。(p.82)

本は、知らない世界を見せてくれる窓で、自由な扉。

ドラえもんの「どこでもドア」のように、自分がいる場所からすぐさまに行きたい場所へ行くことができる。

ただ、行きっぱなしではなく「今ここ」に戻ってくることもできる。

  

本書の中で、著者の岸が「私にとってとても大切な物語」として紹介している絵本がある。 

 今年2018年の初めに亡くなったアーシュラ・K・ル=グウィンの作品。「空飛び猫」シリーズとして4冊邦訳されているうちの、3作目である。

 セッションの時にはお互いに「読んでない」と言ってさらっと流したが、気になったので、その後に所蔵している公共図書館で借りてきた。児童図書のコーナーにあると思っていたが、一般書の外国文学の場所にあって少し驚いた。シリーズがすべてそろっていたが、3作目までを借りて読んだ。

村上春樹の翻訳で、巻末には日本語では表現しきれない言い回しを丁寧に解説した訳注があり、さらに作品全体について言及した訳者あとがきがある。このような箇所があるので、大人向けと判断されたのだろうか。 

 やんちゃで生意気な普通の猫のアレキサンダーは、小さな「空飛び猫」と友だちになる。彼女は、空を飛ぶことはできるけれども、あることが原因で、口をきくことができない。言葉が出てこないのだ。

 アレキサンダーはそこで、彼女に、とても大きな「おせっかい」をやく。

 私はこの物語が大好きだ。それで救われたといってもよい。しかし、読む人によっては、アレキサンダーのしたことは、他者の内面への余計な介入でしかないかもしれない。(p.212)

 3冊を順に読んでみて、なぜ、岸が3作目を特に好きなのかが分かった。

 訳者の村上は、岸が「おせっかい」と言ったアレキサンダーの行為について

アメリカの猫はいろんなことをやらなくちゃいけなくて、大変そうです。(『素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち』p.54) 

 などとシニカルに言っているが、訳出から20年以上経ち、日本の猫だって同じ状況になっているのではないか、などと感じた。

「空飛び猫」の母猫ジェーンは普通の猫である。しかし、なぜか生まれた子猫たちには翼がある。第1作目で、母猫は自分の子どもたちに翼がある理由を悟るが、その理由はとても切なく、現代における人間の子どもたちにも通じると感じた。

岸が考えている「社会」というものが、この「空飛び猫」によってより浮かび上がってくるように思えた。そして、この「とても大切」な物語が強いテーマを持っているということを知るには、その前の2作を読むことも欠かせない。

こうして、本が指し示す別の本が、また別の本を指し示し、それらを経てまた元の本に戻るという循環を体験した。

ル=グウィンという人の社会に向けるまなざしや、訳出した村上春樹の考え方、それらをのみこんで「大切」と言い切る岸の思い。

 

本の中には過去に書かれた本がのみこまれている。

本は本を種として、また養分として芽を出し、花ひらく。

「読むというのは、どういう行為なのか」という問いに対して、あれこれ考えているうちに思いついたことである。

読むということは、それまでに人によって読まれたものも読むということだ。

のみこまれたものを、のみこんでいる。

私たちは、出ていって自由になる話と同じくらい、もといた場所に帰る話に惹かれる。(p.84)

 断片的なものたちに囲まれ、断片的に感じたり考えたり惑いながらも、

過ぎ去った十年に呆然としながらも、

本という四角い窓/扉を開けて知らない世界に出かけて行き、

さまざまなものを見る。

 

そして、もといた場所に帰る。

見てきたものを、のみこんで。