「のんき」と輪郭

少し前のことだが、数年越しの念願がかなって、東京にある書店Tに行った。

こじんまりとしていながらカフェとギャラリーが併設されていて、それでいて本棚は自分の思う「完ぺきな」状態だった。

そこには宇宙があった。

どの本も読まれたがっているように思え、自分が読みたかった本だという思いが生まれるような。興味あることも知らないことも混ぜこぜで、しかしちゃんと目に入ってくる。

この書店が素晴らしいのは、インターネットや知人や新聞など、色々なところから知って「読みたい」と思っていた本の実物が、ひとつ残らず「あった」ことだ。

実物を見て結果買わなかったものもあったが、代わりにその近くにあった本が気になったり、平積みに目を走らせている最中に「あ、これ買おうと思ってたんだった」という本が目に入る。手に取って見ることのできる重要性を感じる。

 「本と出会う」場としての書店が話題になっているけれども、本当に出会うべき本が目に飛び込んでくるには、見る側にもある程度「慣れ」が必要だ。しかし今回訪れた書店はそうした訓練は必要がない気がした。主張があるわけではない。ただ、訪れた人が求める宇宙がちゃんとある。別格だと感じる。

 

そんな「完ぺきな書店」で買った数冊の中に、いま自分が出会うべき本があった。

ガケ書房の頃

ガケ書房の頃

 

いわゆる新刊ではなく、何度も他の書店で見かけて知っていた本である。ただ、この日は背表紙が「光って」見えた(棚に差さっていた)。

2018年秋、本書に所収されているエピソードを元にした絵本が刊行された。その際に、元の文章がウェブで無料公開されたので読んでいたが、とても面白かった。背表紙が光った瞬間、そうしたことも思い出された。

 人前で話さないというのは、自分も近い経験をしているのでよく理解できる。幼稚園で「劇の主役をやりたい人?」とせんせいに言われたとき、一人だけ絶対に手を挙げないような子どもだった。しかしそのせいで、なぜか主役になってしまったということがある(人生最初に感じた理不尽)。

 

ガケ書房の頃』は、そんな「普通の子どもと違う生き方をしてきた」著者の自伝である。大学受験に失敗して家出、さまざまな職業を経験した紆余曲折ののち、「自分が一生やる仕事」として始めた新刊書店が「ガケ書房」だ。

回り道をしながら自分の本当にやりたいことを探していく著者の姿に、この先どこに行きつくのか分からないと感じている自分を重ね合わせていた。本に関する色々な想いに共感しつつ、主人公である著者とともにこの本の中に流れる時を過ごした。それは、日常から浮遊できる、とても幸せな時間だった。

ガケ書房でよく売れる本の傾向は、生き方を照らしてくれるような本だ。

<中略>

僕はその出会いを提供するために、入口をたくさん作る。普段のなにげない日常生活の寄り道となる入口。それは、僕が子どものころにこま書房で夢中になった、違う世界への扉だ。(p.155)

書店や図書館は、世界の入口だということは、よく言われるし、自分もそう実感しているひとりである。未知の世界が本としてそこに存在し、文字通りその「扉」を開くも開かないも自由だ。

店はお客さんを選ぶことはできないが、お客さんは店を選ぶ。比べたりもする。ブランド戦略で結果的にお客さんを<セレクト>している店もあるが、僕は欲張りなのであらゆる人に来てもらい、楽しんでもらいたい。万人に受ける品揃えの店という意味ではない。いってみれば、店内に入ったら童心とまでいかなくとも、地位や立場や見栄を一時的にでも忘れて、気持ちを解放できるような店。

<中略>

かっこよく言えば、確認と発見と解放を棚に並べておきたい。(p.156)

「確認と発見と解放を棚に並べる」とは、なんと的確な言葉だろうか。自分が感じていたことを、こんなにぴったりとした言葉にできるのかと驚いたし、嬉しかった。書店での購買行為を「確認の買い物」と「発見の買い物」と区分けしていることも面白い。

 

いいものに触れるといいものを作りたくなる。いい文章、いい映画、いい音楽、いい絵、いい漫画、いい人、いい店。自分にできるとかできないとか関係なく、いいものを作りたいという輪郭が生まれる。(p.160)

 「文化」というものの及ぼす作用を端的に表したいい言葉だなと思う。いいものに触れてできた「輪郭」が、ぼやっとできてきたとき、その輪郭について取り急ぎ誰かに語ることは大切だと思う。本や映画の、批評じゃなく感じたことを。音楽を聴いて思ったことを。いい人に会った感動を、誰かに伝えること。そうすることで「輪郭」は、どんどん濃くなる気がする。

 

本屋で買った本は、全部お土産だ。(p.237)

世界への扉を自分のものとして持ち帰ることができるとは、本とは不思議なものである。時には「なぜこれを買ったのかな」と思うこともあるが、「お土産」だと思えば納得もできる。そのときに感じた何かや、空気を持ち帰りたいと思ったのだろうから。

 

ガケ書房でのライブイベントのエピソードの中で、小沢健二氏の登場する部分は特に印象的である。

頑なに目の前の日常を死守することだけに懸命な僕の姿勢や発言を、小沢さんは、世界的に見たらそれはのんきな姿勢に映るけれども、そののんきさが実はいいんじゃないか、山を登ったり川を眺めたり散歩したり、それぞれの日常を全うすることが大事なんじゃないかなと話した。(p.228)

 「オザケン」は自分にとって特別なアーティストの一人であるが、そうしたことをさておいても、著者の「苦しかった時期」に救いとなったに違いないと信じられる。彼が発したという「のんき」というキーワードは、些細な日常のことでさえ右往左往してうまくいかない自分に対しても「それもいい」と許してくれる気がして、救われた。

 

読書という誤解され続ける行為のハードルを下げるプレゼンテーション(p.282)

このことについては、自分もずっと考えている。

本が世界への扉であり、その本がある場所は宇宙である、そうしたことを、体感できる者が、どうにかして伝えないといけないことなのではないかと。

 

本文を読み終えてぱらぱらと本書をめくり、織り込まれているカラー写真を眺める。これらの写真があまりにも「あの頃」感を醸しだしている。最初は「本当にもう存在しないんだな」と残念な気持ちで見ていたが、やがて行ったことがないのに「懐かしい」という気持ちへと変化していった。いい写真だと思う。

 

この本を読んで、自分のなかにも「何かいいものを作りたい」という輪郭が生まれたのは確かだ。その中身は、まだぼやっとしたり、はっきりして見えたり、不安定なようだが、いつか何かいいものを作りたい。

そして、それは苦しさを覚えるほど頑張った上でのことではなく、「のんき」に見える日常を送っているうちに「いつの間にか」見えてくるものだといい。

そんな風に思っている。 

 

 

セッション10

2019年のセッションは、課題本なしのスタート。

正確にいうと、課題図書は決まっていたのだけれど、互いに年明け早々いろいろと立て込んでしまい、読む時間が取れなかったので翌月に持ち越したのである。

それで、課題本以外で気になったトピックを披露しあうことにした。自分は雑誌をいくつか読んで、印象的だった記事について考えを述べたがそれについてはおいておく。

 

本を読む時間が取れないとき、雑誌を斜め読みすることで、新たな発見をもとめ、活字欲を満たしていたようなところはある。 

病院の診療室や、友人の部屋で手持無沙汰な時など、置いてある雑誌を何気なく手に取ることは誰にでもあるだろう。本よりも気軽な暇つぶし。さりげない存在。

インターネットの情報は常に入ってくるが、自分の中に取り込んで咀嚼するようなものというと、それほどない。「きっと誰かに必要」という判断でSNSで外に向けてシェアしていく、という面のほうが自分の場合は多い。

 

BRUTUS(ブルータス) 2019年 1月15日号 No.884 [危険な読書]

BRUTUS(ブルータス) 2019年 1月15日号 No.884 [危険な読書]

 

 「危険な読書」は年始にBRUTUSが組む特集で、2017年から数えて3回目である。前の2回もきっと読んではいたのだろうけど仕事の延長のような感じだったに違いない。あまり覚えていない。今回は目当ての記事が2つほどあったので、楽しみにして買った。

 

目当ての記事は、以前セッションで取り上げた『文字の食卓』著者の正木香子氏と書体デザイナー鈴木功氏の「書体敏感肌」とう書体についての対談、それに「2018年の本」として選んでいた『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』の著者・花田菜々子氏と編集者高石智一氏の対談の2つ。

 

mi-na-mo.hatenadiary.jp

mi-na-mo.hatenadiary.jp

 

どちらも、読んだ本のその後日譚という感じで「そうそう」と楽しく読んだ。

そこで終わらないのが雑誌の面白いところで、ぱらっとめくると色鮮やかなページや、人びとの写真や、小さな書影が目に入ってくる。

特集とは全然関係のないコラムの連載や宣伝ページまで、本という特集内容に合わせている(ような感じである)。

商品情報やおすすめ映画の情報ページは、おそらく本を読まない人が「おすすめ本」のコーナーを読むような感じで、「こうした世界もあるのか」という発見があって面白い。

インターネットでの情報収集が手軽になる以前、かつては、雑誌というメディアがもっと身近で、「情報通」と言われるには目を通していなくてはならないものだったと思う。

グルメに詳しい同級生は欠かさず週刊の情報誌をチェックしていたし、映画好きな友人は雑誌で現在上映している映画やかかっている映画館を確認していたものだ。

 

雑誌の魅力は、そうした情報の欠片がたくさんつまっていて、「自分が得たい情報」以外にも、自然と目に飛び込んでくる所だと思う。

ふと出会った情報は、後々大きな影響力をもつことも少なくない。

 しかし、雑誌の多くはターゲット層が絞られている。その人たちに向け、たくさんの雑多に見える欠片を組み合わせ、彼らが「心地よい」と感じるような色にさりげなく合わせていくのではと想像する。

 

雑誌につかわれている「雑」の字を見ると、思い出してしまうのが、和歌である。

和歌集の部立てに「雑の部」「雑部」と呼ぶ歌群がある。

雑歌(ぞうか)とは - コトバンク

 

学生時代は大量な「雑部」の和歌を目で追いながら、「その他もろもろ」の歌なんだと思っていた。

いまこうして年月を重ねてみると、萬葉集の時代から人々が「雑なこと」にこそ、生きる上で欠かせない「当たり前」な部分をこめていたのではないかと感じる。

もちろん雑誌は和歌集とは異なるけれども、その「生きている」時代を、ときには少し先の未来を、人々の意識に映そうとしてきたことは間違いない。

 

やがて、このままでは情報メディアとしての雑誌はインターネットにのみこまれるだろう。

そうすると「雑なこと」という意識もなくなってしまうのではないだろうか。

 

雑多なおしゃべりは楽しい。

雑貨を集めるのも楽しい。

 

性格は雑である。

 

雑なことが好きなようだ。

 

この文章も雑に終わることにする。

初買い・初読み

2019年は買った本をなんらかの形で記録しておこうと思う。

年末に買いそびれた本をいつもの書店で買おうと思い、在庫ありとなっているフロアに行ったら「石」に関する本のフェアが展開されていた。

とくべつ石が好きというのではないが、その中に、最近よくレビューなどで目にしていた絵本が並んでいたので立ち止まる。

すべてのひとに石がひつよう

すべてのひとに石がひつよう

 

少しめくって読んでみて、これは今日読まないといけない、と感じたので、目当ての本と、雑誌1冊とともに購入。

すべてのひとに

石がひとつ

ひつよう。

 

どんな石でも

いいのでは

ない。

わたしが言っているのは

特別な石。

あなたが

自分で見つけて

いつまでも

永遠に

大切にできるような

石。 

 

そうして、「特別な石」を見つけられるようにと、

「10のルール」が続く。

 あくまで、本当に「石」を見つけるためのルールなのだが、それらは何か、人生における「大切なもの」を見つけるための心構えを指しているように思えてならない。

 

訳者の北山耕平のあとがき「なぜ、すべての人に 石が必要なのか?」にも、ぐっとくる。

石はそれぞれが記憶装置ですし、生きている小さな地球です。

 

自分の石をさがそう。

かんぺきな色の。私の特別な形の。

 

年の初めにぴったりの、いい本に出合えてよかったと思う。

 

18→19

 2018年はここ数年の中でも、特にたくさん音楽を聴いて、色々な本を読んだ。

環境の変化で「人に会う」ことが減ったというのもある。

それでも、それほど寂しい気持ちにならなかった。

どの作品も日々を送ることを支えてくれたが、なかでも印象的だったものを挙げてみる。

「本には人がつきものだ」ということの思いを強くした1冊。

没頭して一気に読み切って、その分エネルギーを消耗して読後は脱力する、という読書体験は久しぶりだった。

この本の元となったWEBでの連載もずっと読んでいたが、1冊の本にまとまって読んだ時に全く別物に思えた。そのことにまた、本というものの力を感じたものだ。

本を売りたいと思っている人が書いた本が売れる、という現象も凄いと思う。

「2018年の1冊」を選ぶとしたら迷わずこれだといえる。

  

天体

天体

 

夏頃から、主に夜のリラックスタイムにずっと聴いていた。

かつてない心地よさ。あまり季節も選ばないで聴くことができる。

季節感のある曲も好きなのだけど、いつでもぴったり心地よい、そんな存在があると安心だ。自分にとってライナスの毛布みたいな感じ。

いつでも あるようで すべては 変わりゆく

                 「わすれてしまうまえに」より

流れている旋律だけで十分心地よくて楽しいのだけど、 余裕があるときに歌われている言葉に耳を傾けるとしみじみといいなと思う。
乾いた魂にしみ込んでいくようだ。
 
サイレンと犀 (新鋭短歌シリーズ16)

サイレンと犀 (新鋭短歌シリーズ16)

 

自作の短歌をかわいらしいイラスト(安福望さん画)とともにtwitterで投稿されていて、 自分がフォローしているアカウント経由で知った。

ふとタイムラインに流れてくると、はっとする。

詩や短歌や俳句はSNSと相性がいいかもしれない。 不意打ちに出会って、世の中を見る目を変えるのにインパクトがあるから。

 

脳みそがあってよかった電源がなくなっても好きな曲を鳴らせる

 

どの歌もどことなく諦めというか、基本的にかなしみを湛えてる気がするのだが、そこに1筋の光を感じる。

日々を送るのにはこれくらいのほの暗い光の方がいいというような。

 

魔法が使えなくても (フィールコミックス)

魔法が使えなくても (フィールコミックス)

 

 コミックから。

これもtwitterで知った。

2018年のコミックと言ったらこれだけ読めばいいみたいな書き込みを見て、興味を持って読んでみた。

コミックを書店で入手することも今となってはなかなか難しい。発売から半年も経っていたら余程の人気作でない限り店頭にない。ところが、旅先で寄った地方の書店チェーンの店舗は1フロア全部がコミックで、この本も当然のようにあって、凄いと思った。この本を見るときっと、あの行きずりの書店を思い出すだろう。

作品の内容は、なんということもない青春の一コマのようだが、読み終わった後に突然ふと思い出されてくるという不思議な余韻のある作品だった。

白か黒じゃないよ。この世は♪ きれいな♪ ねずみ色〜♪

やりたいことが分からなくても、それでいいんじゃない、と堂々と言ってくれる登場人物はなかなかいない。そこに救われる。青春を過ぎ去った自分でさえそう思うのだから、真っただ中にいる彼ら彼女らはどれほどだろう。多くの迷える人に届いてほしいと思う。

 

こうして並べてみると、どれにも共通するものがあるなと思う。

永遠にとか、変わらないとか、そんな言葉にはもう励まされない。

忘れたりなくしたりしてもいいのだ。

流れていき消えていくものなのだ。

ものごとは変わっていってしまう。

そのことを受け入れ、肯定しているものに惹かれるようになった。

 

ものでも人でも「あの頃出会いたかった」と思うことがある。

きっと人生は違う方向へ向いただろう。

それは時が経った今だから分かるわけで、そのときは分からない。

遅かれ早かれ結局出会えたとしたら、それでいいのかもしれない。

いまは出会ってからの時間を 大切にしていきたいと思う。

 

このブログでのセッションは9回。

読み合う相手がいなかったら、1冊1冊をこんなに読み込めなかった。

ありがたい。こうして感謝の気持ちで1年をとじたことが嬉しい。

 

新しい1年がひらかれた。

本という扉をひらいた先に、また色々な世界を一緒に見ていけたらいいなと思います。

セッション9

「平成最後の」という枕詞が何度も何度も使われた2018年。

今年の締めくくりセッションは90年代について。

natsuhasha.com

京都の書店・誠光社の店長、堀部篤史氏の書いたエッセイである。

書店で探し当てたときに拍子抜けするほど簡単な感じの、薄い本だった。見ようによったら、「ちょっと値段のいい」ノートくらい。日記帳みたい。

しかし、薄いのは見かけだけで、内容はとても濃かった。

 

相棒が、本の帯の言葉に言及する。

表紙側には「スマートフォンのない時代へ」。

帯の背には「思い出と考察」。これは見落としていた。

 実は、セッションの日の少し前に旅に出たのだが、その旅先でスマートフォンが故障した。行先と予定が決まっていた旅だったし、その少し前に通信会社の電波障害などがあったこともあって、自分は事前に行先の地図等を紙にプリントアウトしておいた。

そうした準備によって旅の最中は特に困らなかったのだが、困ったのは旅から帰ってきてからである。仕事が忙しいうえ、携帯電話会社の店舗の受付終了時間は早い。結局2日間ほど通信手段は自宅のWi-Fiのみ、という状況だったが、日常の中でスマートフォンがないという状態がとても不安だった。

もう「なかった」あのころには戻れないとつくづく思った。

 

いまあるものを捨てて過去にさかのぼりパラレルワールドに住むことはできないが、せめてゾンビ映画の序盤のような街でも飄々と生きていきたい。いらないものが増え続けるのならば、せめて本当に必要なものを取捨選択できるくらいは覚めていたい。そのためにはかつてわれわれには何がなく、代わりに何があったのかを思い出す必要がある。(p.16)

 

「考察」のための「思い出」。

なるほど、それであるから「濃く」感じたのだろう。著者と自分の思い出を行き来しながら、自分も考えていく。その作業の中で感じたことは、90年代は徹底的に「消費」してきた著者が、2020年を迎えようとするいま、「消費される」ことを嫌悪しているように思えるということだ。そのことに自分も共感している。

 

実を言うと「今度は堀部さんの新刊にしましょう」と提案があったときに、ちょっと怯んだ。著者の堀部氏も、版元である夏葉社の島田潤一郎氏も、相棒も、自分と同世代。そんな彼らが書いたことを読むと、自分の「痛い」ことまで思い出しそう、と考えてしまう。

岩波書店のPR誌『図書』に、「九〇年代の若者たち」というタイトルで島田氏がコラムを載せたことがある。掲載当時に読み、大きな喪失感を味わった。

島田氏の私小説的なエッセイだけれど、もう一つの側面として、その時代の文化と結びつく90年代の音楽というテーマもある。今回の課題本と関連がある気がしている。 

ぼくが青春時代を送った九〇年代は、それよりも、音楽の時代だった。もっといえば、CDの時代だった。

(『図書』2016年10月号、岩波書店、2016年、p.11)

 本文の中で、島田氏は 「このころによく聴いた」として、以下のアルバムを挙げている。

LIFE

LIFE

 
ハチミツ

ハチミツ

 
東京

東京

 
空中キャンプ

空中キャンプ

 

※1990年代以降に再販されたものもあります。

 

そう、多くの「90年代の若者たち」は、これらのアルバムを聴いていた。

その頃はよく、CDの貸し借りをした。誰かの手で渡されて知ったものも多い。

普段は忘れているけれど、懐かしさというよりはその時に立ち戻るような気持ちになる曲たち。表向き、日常の中で見えなくなっているだけで、「あのころ」は簡単に「いまここ」になる、そのためのスイッチのような。

 

課題本に戻る。

 同世代間に共通の姿勢や考え方があるとすれば、それは原体験となった音楽とは切り離せない。

《中略》

 すでに出尽くしたヴァリエーションの新しさよりも、過去のアーカイヴ発掘が新鮮だった一九九〇年代に青春を過ごした僕にとって、決定的な影響力を持ったのはほかでもないヒップホップだった。過去の情報を引用し、並べ替え、別の意味を持たせる「編集」こそがクリエイティブな行為であるという発想の転換。それは音楽だけでなく他の分野にも応用できる「発明」だった。(p.99)

この後に続く「編集」論には、大きく頷いてしまう。

思い出すこと、考察すること。それにより未来をつくること。 

少し年上の世代のアーティストたちは、「僕の見たビートルズはTVの中」(斉藤和義)とか、「僕があなたを知ったときはこの世にあなたはいませんでした」(「拝啓、ジョン・レノン真心ブラザーズ)と憂う。

彼ら のように「間に合わなかった」世代とは、違う。

さらにそれ以前の、堂々たる「間に合った」世代とも、もちろん違う。

フラットで薄い。と見せかけてディープで濃い。

飄々と、パラレルワールドのような世界で生きている。

古いも新しいもなく、「いいものはいい」として引用と編集でつないでいく。

この先の未来をどのように編んでいこう。

どんな編み方があるだろうか。

セッション8

9月に日帰りで京都に行った際、本の世界では有名な書店に立ち寄った。

日本全国にある「カリスマ書店」のひとつで、店長氏と話す時にも緊張してしまった。棚が何より雄弁だったから特に話す必要なかったのだけど、こんな棚を編集している人はどんな人なんだろうとつい話しかけてしまうのだ。 

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

 

 この本は、その店で棚差しになっていたのを手に取り、買い求めたものである。前々からタイトルは知っていて読みたいと思っていたし、この書店に来たからには「本の本」を買うのがいいと思って選んだ。

読み始めてすぐ、つらなる言葉に目から心まで吸い込まれていった。とにかく読んでいて心地よくて楽しい。こんな本を読んでいると言ったら、実は相棒も未読本だったということで、課題図書になった。

読めば心に残る。驚きがあり、発見がある。覚えてしまった言葉は、本そのものが手許にないときでさえ、楽しませてくれる。考えさせてくれる。その場ではあまり意味がわからなくても、よみがえってくるとき「ああ、そういうことなんだ」と納得したり感心したりすることがよくある。そしてこのプロセスが、われわれの心の風景を変えてゆく。心の地形も気象も変えてゆく。(p.45) 

「そうそう」という共感だけではなくて、「そういうことなんだ」という感じ。こんな言い方で表現できるのか、と何度も唸ったし、笑ったりもした。

「(筆者は)詩人ですからね」と相棒は言ったけれど、詩的な表現を用いつつも目線には対象への一定の距離が感じられると思う。

 

読書や本についての筆者の言葉は、個々に抜き取ってみてもインパクトがある。

「本は天下の回りもの」という植草甚一さんの名文句は、ぼくが人生の初期に出会った数少ない真理のひとつだが、まさに本こそはその本性上res publicaつまり「共有物」であり、世界のすべての書店がかたちづくる緊密で同時に拡散したネットワークこそ、地球規模ですでに実現されたふたつの「共和国」republicのうちのひとつなのだと、ぼくは思う。(p.21)

 この「書店という共和国」の発想は現実に本の世界に住む人を動かし、「共和国」という屋号の出版社が設立された。屋号の由来の一つが、まさにこの本のここの部分の記述だということを聞いたことがある。

そうした出来事も、すでに本のネットワークだという感動を覚える。

「本脈」からくるもの。

読書はもっぱらチャンス・ミーティング(偶然の出会い)であって、そこに発見のよろこびも、衝撃も、おびえも、感動も、あった。(p.67)

読書とは、一種の時間の循環装置だともいえるだろう。それは過去のために現在を投資し、未来へと関係づけるための行為だ。(p.4)

読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。(p.10)

この辺りは、最近自分の中でも固まってきつつある考えで、「読む」と「書く」は対であって、それがずっと続くから本はなくならない。

潮を打つように本を読みたいと、ぼくはいつも思ってきた。世界にむきあい世界に覚醒するための読書、遠くを見て遠い声を聴き遠くを知るための読書をしたい。(p.100)

筆者の文章に感じる距離感に心地よさを覚えるのは、「遠く」を見ているから。

何事にも近寄りすぎないで、さまざまな境界線の上にいたいと思う自分と似ている。

 

話とは、それ自体が贈り物だ。誰もが誰もにすべてを話すはずはなく、ある話が出てくるのは風に果実が落ちるような僥倖にすぎない。あるひとつの共同体でなく、たったひとりの人間を相手にしたときでさえ、その記憶は途方もない広がりをもっている。その中のごくいくつかの細部が、あるとき特定の誰かを相手にぽろりと話に出て、聞き手の記憶に転送される。聞き手は聞き手でそのつもりがなくても自分の理解に合わせて切り取り、文字に記す。こうして降り積もるアーカイヴが、さらなる編集を経て、本にまとめられる。その本を読んだ人間は、ふたたび勝手に自分の趣味・志向・問題意識などにしたがって、本を再断片化し、理解にひきこむ。(pp.132-133)

筆者は、冒頭から「本は読めないものだから心配するな」と言っている。

すなわち、本は読みたくても読めないものだし、せっかく読んだものは忘れてしまうものだと。

しかし、その本が自分にとってどうだったかの「プロセス」を重視しており、「残ったもの」が何であったのかについては、追究し書き残すことを推奨しているように思う。 

そのプロセスの過程で、人に話す・語るが入ってくる。

語ることがアーカイブにつながる。

 

「物体としての本」のこと。

本のかたちをとれば、書店で売られたり、図書館に並べられたり、個人の部屋の中でも、本棚に立てられたり、机に積まれたり。モノとしてのそれなりの「お行儀」が決まってくる。もちろん流通や収蔵のための便利さを考えれば、本という形態は圧倒的にすぐれている、僕は本が大好きだ。(p.165)

以前に『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』を読んだ回で、相棒が「誰かに連れて行ってもらうために本はこのかたちになった」と言っていたのを思い出す。

読んで話したこと、話したことでまた考え付いたことをアーカイブしておくことは大切だ。

 

最近目にした、絵本作家の五味太郎氏と哲学者の國分功一郎氏のトークの再録がとても面白くて、本だったら付箋をいっぱいつけてしまいそうな内容だったのだが、そこでも「本のかたち」については述べられている。

五味太郎×國分功一郎トークイベント「絵本と哲学の話をしよう」@銀座蔦屋書店2018年9月28日 イベントレポート 2/4

以下、五味氏のコメントから。

本っていうのが大好きだから、どうしてもなんか本に落とし込みたい。

好きなんだよ。本て、あやしいじゃない。

人っぽいんだよね。見えるんだけど、実はおへそは見えないというか。

本っていう形が、うまいこと考えたな、というか。これ、古いかたちだよね。「安心して」みたいな形。

「本が好き」と「本のかたち」が関連していることがはっきりと示される。

面白い。本が好きな人たちが人みたいな本たちをつくる。

 

移民のこと、翻訳のこと、旅の話、教育について。

本書における多岐にわたる話題はどれも興味深く、そのひとつひとつが自分に与えたインパクトについて話していけば何時間あっても足りず、きりがない。

全てを引用したいくらい。

そんな状態だったのだが、限られた時間のなかで、どうしても自分がいま言いたいと思っていたことを、忘れず伝えられたのはよかった。

分析的に考えるなら、それはまちがいなく図書館の夢なのだろう。つまり、野原に咲く花は、ひとつひとつが一冊の本だ。その本のあいまを自分が歩いてゆくのだが、手をふれないかぎり、本の内容は解放されない。

<中略>

何か美しさを感じてはいるのだ、たしかに。この野は異様な光でみたされている。だが自分のやっていることはといえば、結局はただ本に手をふれ、言葉を浮遊させ、言葉たちの群れを作り、またその群れによって置き去りにされるのをじっと傍観し、耐えているだけ。(pp.250-251)

おさまりのよい形をしながら、本というのはどんな花を咲かせるか分からない種を持っている。触れた人によって解放される。

触れたところで、作用しないこともある。いや、「自分には作用しなかった」と思ってしまうほどに浮遊してつかまえにくいもの。触れたのに、掴めなかった、置き去りにされた、という気持ちになるもの。

映画を見た、少しを記憶し、多くを忘れた。忘れたことは仕方がないので、記憶していることをきみに語ろう。そのようにして語る内容こそ、どれほどまずしくつたなくても、われわれにとっての映画そのものなのだ。(p.159)

本は読めないものだし、読んだところで覚えられない。

けれど、自分は誰かと読んで記憶していることについて語り合うということを手に入れた。それは本当にすごい贈り物だ。

断片的なものを、欠片を、浮遊する何か美しいものを、声の花を、きれいだとか面白い色だねと言い合って、風に飛ばされていくさまを見送ってもいいではないか。

声の花たちに置き去りにされたとしても、一人じゃないから、そこには不思議な楽しさがある。

多くを忘れてしまっても、語ることによって心の地表や気象に少しの変化があったと確かに感じられる。それが、われわれにとっての本そのものなのだ。

 

 

セッション7

秋が深まってきた。

セッションとブログを始めてちょうど半年が経った。

7回目、予定より一週ずれてのラッキーセブン回である。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

セッションは、いわゆる「本の本」(書店・読書・出版などに関する本)を課題図書にすることが多い。

けれども回を重ねていくうちに、「本の本」について語った回の次の課題図書は「本の本じゃない本」と設定するようになった。前回が『読書について』だったので、今回は「じゃない本」で社会学の本、というように。

 

今回は、読了からすこし時間が経って印象が薄れ始めていたので、時を戻すようにして直前に「後ろから」再読してみた。なんとなく、歩いてきた道を忘れ物を探しながら戻るみたいな感じがした。

 読む前から、表紙の写真が印象に強く残っていたが、理解のしにくい「社会学」というジャンルのことも含めて表現されている気がする。そして、小説家・星野智幸の帯文の言葉がこの本の性格を見事に言い表していると思う。

この本は何も教えてはくれない。ただ深く豊かに惑うだけだ。

惑う。

そうなのだ。もやもやする。タイトル通り、何もかもが断片的である。

まるで自分の思考のようで、だから、とても近くにも感じる。

だが、世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。(p.38)

 もちろん私たちはその十年という時間をまったく「共有」してないし、そのことで何かの感動があったわけでもない。そもそも私は、そんな当たり前のことを誰にも、語り手本人にも伝えていない。

 しかし私は、彼の十年は私の十年でもあった、というただそれだけのことが、私と彼のあいだに、何かの「会話」を、言葉にも感情にもよらない無音の対話を成立させているような気がするのだ。(p.143) 

相棒と本の話をしていると、時にそのようなことを感じる。

誰との間にも別の十年が流れているが、それが知らずに交差している場合もあるし、知ってて関わる場合もあって、不思議に思う。「ただそれだけのこと」であるのに、何とも言えない気持ちになってしまう。

こうした、本書に随所に出てくる「何事でもない」「当たり前」「たいしたことはない」などのフレーズは、読む者にネガティヴでつかみどころのない印象を与えるかもしれない。

しかし、それらのフレーズの繰り返しは「当たり前」ということが実は凄い事実を示しているんだ、ということの強調になっていると思う。

「単純な事実として」知ってはいても、「気付く」には至っていないよ、ということ。 

 四角い紙の本は、それがそのまま、外にむかって開いている四角い窓だ。だからみんな、本さえ読めば、実際には自分の家や街しか知らなくても、ここではないどこかに「外」というものがあって、私たちは自由に扉を開けてどこにでも行くことができるのだ、という感覚を得ることができる。(p.82)

本は、知らない世界を見せてくれる窓で、自由な扉。

ドラえもんの「どこでもドア」のように、自分がいる場所からすぐさまに行きたい場所へ行くことができる。

ただ、行きっぱなしではなく「今ここ」に戻ってくることもできる。

  

本書の中で、著者の岸が「私にとってとても大切な物語」として紹介している絵本がある。 

 今年2018年の初めに亡くなったアーシュラ・K・ル=グウィンの作品。「空飛び猫」シリーズとして4冊邦訳されているうちの、3作目である。

 セッションの時にはお互いに「読んでない」と言ってさらっと流したが、気になったので、その後に所蔵している公共図書館で借りてきた。児童図書のコーナーにあると思っていたが、一般書の外国文学の場所にあって少し驚いた。シリーズがすべてそろっていたが、3作目までを借りて読んだ。

村上春樹の翻訳で、巻末には日本語では表現しきれない言い回しを丁寧に解説した訳注があり、さらに作品全体について言及した訳者あとがきがある。このような箇所があるので、大人向けと判断されたのだろうか。 

 やんちゃで生意気な普通の猫のアレキサンダーは、小さな「空飛び猫」と友だちになる。彼女は、空を飛ぶことはできるけれども、あることが原因で、口をきくことができない。言葉が出てこないのだ。

 アレキサンダーはそこで、彼女に、とても大きな「おせっかい」をやく。

 私はこの物語が大好きだ。それで救われたといってもよい。しかし、読む人によっては、アレキサンダーのしたことは、他者の内面への余計な介入でしかないかもしれない。(p.212)

 3冊を順に読んでみて、なぜ、岸が3作目を特に好きなのかが分かった。

 訳者の村上は、岸が「おせっかい」と言ったアレキサンダーの行為について

アメリカの猫はいろんなことをやらなくちゃいけなくて、大変そうです。(『素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち』p.54) 

 などとシニカルに言っているが、訳出から20年以上経ち、日本の猫だって同じ状況になっているのではないか、などと感じた。

「空飛び猫」の母猫ジェーンは普通の猫である。しかし、なぜか生まれた子猫たちには翼がある。第1作目で、母猫は自分の子どもたちに翼がある理由を悟るが、その理由はとても切なく、現代における人間の子どもたちにも通じると感じた。

岸が考えている「社会」というものが、この「空飛び猫」によってより浮かび上がってくるように思えた。そして、この「とても大切」な物語が強いテーマを持っているということを知るには、その前の2作を読むことも欠かせない。

こうして、本が指し示す別の本が、また別の本を指し示し、それらを経てまた元の本に戻るという循環を体験した。

ル=グウィンという人の社会に向けるまなざしや、訳出した村上春樹の考え方、それらをのみこんで「大切」と言い切る岸の思い。

 

本の中には過去に書かれた本がのみこまれている。

本は本を種として、また養分として芽を出し、花ひらく。

「読むというのは、どういう行為なのか」という問いに対して、あれこれ考えているうちに思いついたことである。

読むということは、それまでに人によって読まれたものも読むということだ。

のみこまれたものを、のみこんでいる。

私たちは、出ていって自由になる話と同じくらい、もといた場所に帰る話に惹かれる。(p.84)

 断片的なものたちに囲まれ、断片的に感じたり考えたり惑いながらも、

過ぎ去った十年に呆然としながらも、

本という四角い窓/扉を開けて知らない世界に出かけて行き、

さまざまなものを見る。

 

そして、もといた場所に帰る。

見てきたものを、のみこんで。