セッション10
2019年のセッションは、課題本なしのスタート。
正確にいうと、課題図書は決まっていたのだけれど、互いに年明け早々いろいろと立て込んでしまい、読む時間が取れなかったので翌月に持ち越したのである。
それで、課題本以外で気になったトピックを披露しあうことにした。自分は雑誌をいくつか読んで、印象的だった記事について考えを述べたがそれについてはおいておく。
本を読む時間が取れないとき、雑誌を斜め読みすることで、新たな発見をもとめ、活字欲を満たしていたようなところはある。
病院の診療室や、友人の部屋で手持無沙汰な時など、置いてある雑誌を何気なく手に取ることは誰にでもあるだろう。本よりも気軽な暇つぶし。さりげない存在。
インターネットの情報は常に入ってくるが、自分の中に取り込んで咀嚼するようなものというと、それほどない。「きっと誰かに必要」という判断でSNSで外に向けてシェアしていく、という面のほうが自分の場合は多い。
「危険な読書」は年始にBRUTUSが組む特集で、2017年から数えて3回目である。前の2回もきっと読んではいたのだろうけど仕事の延長のような感じだったに違いない。あまり覚えていない。今回は目当ての記事が2つほどあったので、楽しみにして買った。
目当ての記事は、以前セッションで取り上げた『文字の食卓』著者の正木香子氏と書体デザイナー鈴木功氏の「書体敏感肌」とう書体についての対談、それに「2018年の本」として選んでいた『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』の著者・花田菜々子氏と編集者高石智一氏の対談の2つ。
どちらも、読んだ本のその後日譚という感じで「そうそう」と楽しく読んだ。
そこで終わらないのが雑誌の面白いところで、ぱらっとめくると色鮮やかなページや、人びとの写真や、小さな書影が目に入ってくる。
特集とは全然関係のないコラムの連載や宣伝ページまで、本という特集内容に合わせている(ような感じである)。
商品情報やおすすめ映画の情報ページは、おそらく本を読まない人が「おすすめ本」のコーナーを読むような感じで、「こうした世界もあるのか」という発見があって面白い。
インターネットでの情報収集が手軽になる以前、かつては、雑誌というメディアがもっと身近で、「情報通」と言われるには目を通していなくてはならないものだったと思う。
グルメに詳しい同級生は欠かさず週刊の情報誌をチェックしていたし、映画好きな友人は雑誌で現在上映している映画やかかっている映画館を確認していたものだ。
雑誌の魅力は、そうした情報の欠片がたくさんつまっていて、「自分が得たい情報」以外にも、自然と目に飛び込んでくる所だと思う。
ふと出会った情報は、後々大きな影響力をもつことも少なくない。
しかし、雑誌の多くはターゲット層が絞られている。その人たちに向け、たくさんの雑多に見える欠片を組み合わせ、彼らが「心地よい」と感じるような色にさりげなく合わせていくのではと想像する。
雑誌につかわれている「雑」の字を見ると、思い出してしまうのが、和歌である。
和歌集の部立てに「雑の部」「雑部」と呼ぶ歌群がある。
学生時代は大量な「雑部」の和歌を目で追いながら、「その他もろもろ」の歌なんだと思っていた。
いまこうして年月を重ねてみると、萬葉集の時代から人々が「雑なこと」にこそ、生きる上で欠かせない「当たり前」な部分をこめていたのではないかと感じる。
もちろん雑誌は和歌集とは異なるけれども、その「生きている」時代を、ときには少し先の未来を、人々の意識に映そうとしてきたことは間違いない。
やがて、このままでは情報メディアとしての雑誌はインターネットにのみこまれるだろう。
そうすると「雑なこと」という意識もなくなってしまうのではないだろうか。
雑多なおしゃべりは楽しい。
雑貨を集めるのも楽しい。
性格は雑である。
雑なことが好きなようだ。
この文章も雑に終わることにする。