逃げる
5月がいつの間にか終わって6月に入った。
なんと早い。月日が逃げていく。
逃げるといえば、最近読んだ絵本がたまたま「逃げる」テーマだったりしたので、面白いなと思い取り上げる。
東京でバージニア・リー・バートンの展示が あったようだ。
その展示に行った友人から『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』のマスキングテープをお土産にいただいたので、あらためて絵本を読み返してみた。
- 作者: バージニア・リー・バートン,むらおかはなこ
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 1961/08/01
- メディア: ハードカバー
- クリック: 10回
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バージニア・リー・バートンは、『ちいさいおうち』や『せいめいのれきし』(いずれも岩波書店)で有名だが、この『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』も「きかんしゃ」という子どもの好きなテーマで人気の高い、代表作のひとつである。小学校の学級文庫などで置かれたり、図書館でおすすめ本としてたくさん購入するところもある。
表紙をめくると、絵本にしては珍しく、白黒の画面が広がる。
鉛筆デッサンそのままのような、荒削りな黒い線で描かれており、それが疾走感につながっている。
あるひ、ちゅうちゅうは かんがえました。
「わたしは、もう、あのおもい きゃくしゃなんか ひくのはごめんだ。わたしひとりなら、もっともっと はやくはしれるんだ。」
こうして、ちゅうちゅうは客車を置き去りにし、とにかく好きなように一人で走って走っていく。
あれっ、と驚いた。
ちゅうちゅうが逃げ、周囲が困る、というストーリーは記憶していたが、その前段としてのちゅうちゅうの「心の声」は覚えていなかった。
毎日の仕事がしんどいなと思っている大人が読むと、仕事の重荷、組織の息苦しさをすべて捨て「ひとりならもっとやれる」という考えがよぎる、そんな自分の気持ちが投影されていると感じるのではないか。
もう一冊は図書館の新刊コーナーにあった。
タイトル通り、「影」が主人公である。
面白いことに、物語において、影にはスムートという名前がついているが、影の持ち主ともいえる「おとこのこ」には名前がつけられていない。
「おとこのこ」はどうやら消極的なタイプのようで、スムートが跳ねたり跳んだり、思い切り動き回りたいのに、そうしない。影は本体が動かないと動けない。ストレスがたまるスムート。
スムートは、7ねんはんずっとたいくつしていた。
つまらないほんのようなまいにち。
「つまらないほんのような」という喩えが新鮮である。
スムートとおとこのことは、ほんのみぎとひだりのページみたいにはなれられない。
ここでも、本のページは離れないものという定義のもと、どうしても離れられないという状態を表現している。
ところがスムートは突然、本体のおとこのこから離れることができ、自由自在に好きなことができるようになった。
そうして、行く先々で別の「影」たちに会い、それぞれの希望を聞いていく。
ちゅうちゅうもスムートも、最終的には逃げっぱなしではない。
ただ、逃げたことでわかること、見えることもあるということをさりげなく教えてくれる。
自分もある場所・ある任務から逃げたのだった。
今はそのとき、逃げてよかったと思っている。
自分なくしの旅
訃報が続いている。
遠い世界の人にも、身近な人にも、である。
自分にとっては知らない人でも、毎日会っている人にとって特別な人だったとしたら、その余波は自分にもある。
同僚たちが何度も喪服に身を包んでいるのを見て、かなしみの連鎖を感じる。
このところの不安定な気候(同じ一日の中でも気温差がある)のせいか、いわゆる五月病の一種なのか、体調を崩している人も多い。
抜け出したいなあと思うと、ずぶずぶ沈んでしまうものだし、気持ちにしろ体にしろ、そんなにカキーンと持ち直せるものでもない。
歌手、俳優、文筆業。
マルチなのかと思いきや、あれもこれもと仕事に精をだして生活はまるでダメという「残念な人」を前面に押し出しているエッセイである。
かつて新幹線旅のお供にと気軽に買って楽しんだが、今回再読し、「残念な」部分がいまの自分に結構あることに気づいた。
生活の変化によって、残念な人になっているぞ・・・。
全ての人に平等に課せられているものは、いずれ訪れる「死」と、それまで延々とつづく「生活」だけなのである。(pp.26-27)
忙しい毎日の中で、「上手に」生活を送っていくのは結構しんどい。
しんどい状態のときは、生活をうまく送れない。
堂々巡りになっていく。
「自分探しの旅」などとはよく言うが、私にとっては自分探しなんて孤独でつらそうなものより、積極的に「自分なくし」をしていきたい。(p.131)
ホシノゲン曰く、音楽や演劇をやっていくうえでの共通点は「自分がなくなること」。自分だとか他人だとかいうことがどうでもよくなる瞬間、解き放たれた状態のことだそうだ。
そうしてみると、私以外私じゃないの、などと思うことが苦しさのもとなのかもしれない。
「うわーひとりじゃなかった」と思う日が、来たりするのだろうか。(p.184)
前に読んだ時にはそんなに気に留めなかった部分だったが、今回はしみじみと共感してしまった。
いろんな人に支えられているな、と実感すればするほど、ありがたいな、と思う瞬間があればあるほど、こう感じてしまうのはなぜなのだろうか。
もう自分にも、「残り時間」が少ないと思うことが増えて、何ができるのかと考える。
容赦なく生活は続く。
本当になくなるときまで、「自分なくし」を模索しながら。
ドーナツの日に寄せて
6月1日はアメリカでは「ドーナツの日」らしい。
ドーナツはカリカリのオールドファッションか、ざりざりした砂糖をまぶした昔風のものが好きである(とはいえ布団のような低反発枕みたいな、ふにふにした食感のタイプもいけます)。
オールドファッションであればプレーンのものに半分だけチョコなんかかかってると、なおよし。
カジュアルなのにおしゃれ感があり、男女関係なく似合うおやつではある。
ドーナツ文学ってあるかなと思ってみたのだけど、ハルキムラカミ以外、思い浮かばなかった。特に「羊男」のイメージが強いのは、佐々木マキ画のインパクトかな。
ドーナツの短歌がある。
出会ってからずっと大事にしていて、折あれば開く歌集に収められている。
リブロ池袋本店が閉店する直前、店内に<ぽえむ・ぱろうる>という詩のお店が復活した。その歌集とは、そこで出会った。
リブロ池袋本店が閉店してもう3年も経つのかと思うと驚いてしまうが、きっと忘れないだろう。
ずっと自分のそばにおきたい一冊に、出会えた場所だから。
その一冊とは、歌人・堂園昌彦氏の『やがて秋茄子へと到る』(港の人)。
まず手触りが最高なのだ。
字面も大変美しい。余白が美しい。
もちろん、歌が美しい。
19歳から29歳までの、10年間に詠まれた歌である。
その中の「本は本から生まれる」という章に、その歌はある。
揉め事をひとつ収めて昼過ぎのねじれたドーナツを買いに行く
なんて恰好いいんだ。
「ねじれたドーナツ」だから、穴のないドーナツ。砂糖がざりざりのやつ。
この歌集は、章タイトル自体がまた別の歌のようでもあってそこも気に入っている。
愛しい人たちよ、それぞれの町に集まり、本を交換しながら暮らしてください
これも章タイトル。
座右の銘にしたいくらいである。
ちなみに池袋は全く生活圏ではなく、リブロは日常使いの本屋ではなかった。
それでもかけがえのない一冊に出会った。
そうした本と「出会わせる」力のある本屋がなくなっていくのはつくづく惜しい。
図鑑を買う
ここ数年は新しいジャンルやアーティストを取り入れるというより、手持ちの音源から決まった音楽を聴くことが多いのだけれど、季節の変わり目に急に気分を変えたくなって超絶久々にCDショップに行った。
といってもレンタルが主流で、売り場は小さい店舗だったので考えていたものはなく、ただ「魚図鑑」というタイトルに惹かれてそこそこ楽曲も知っているこちらを購入。
※ 自分が買ったのは、実際はCD版です。
「魚大図鑑」と題した図鑑形式で楽曲を紹介している凝ったブックレットがついていて、楽しい。テンションが上がりました。
ベスト盤だから耳馴染みのある曲ばかりだし、踊れる感じが今の気分によかったです。
正直、ASIAN KUNG-FU GENERATIONとかフジファブリックっぽい楽曲があるにはある。
以前、坂本龍一氏が「西洋の音楽でできることは先人にやりつくされている」と言及されていたが、本当にそうだ。
同じような旋律の繰り返しになるのは前提となっているが、もう今現在の気分に合っている形にどう持っていくか、みたいなことなのかもしれない。
もうひとつ、「図鑑」というタイトルから連想したのは、くるりのこのアルバム。
- アーティスト: くるり,岸田繁,佐藤征史,KONIYANG,ジム・オルーク,根岸孝旨,ナカコウ
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 2000/01/21
- メディア: CD
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爆発していますね。
変容し続けるバンドだけれども、このめちゃくちゃ爆発した時期の楽曲は他にない感じがしてかっこいいなと思う。
くるりのライブには一度しか行ったことがないのですが、その時アンコールで歌われた「尼崎の魚」がとても印象的で、帰ってきてすぐCDを買った記憶がある。
あれ、やっぱり、魚つながりだった。
セッション2
月例セッション第2回。
ミュージシャンはセッションに備えてリハーサルをするけれども(しないというバンドもある)、われわれもリハーサルよろしく、日々思考の交換はしている。ときには、おやつの交換も。
さておき、今回のテーマ本である。
この本を最初に手に取った時、インターネットで観た書影からのイメージとは違う「軽さ」に驚いたのだった。ハードカバーではなく、ペーパーバッグのようなソフトカバーで、折り紙みたいな表紙はやや強めに開くとめりめりと音がする。
本における「天」も切っていない、ぎざぎざのまま、という指摘あり。
アンカット。これらはきっと、わざとだろうという見解。
付箋した箇所を披露しあって、「同じだ」ということが続く。
自分の話ばかり聞いてもらっていたかも。次回はもう少し聞き手にならねば。
本書では、「本は書店の細胞だ」(p.21)「知識は財産である」(p.163)というように、言い切り方がたびたび出てくるのだが、そこが気持ちいいという意見も一致してたように思う。
本を読むことが好きで選んだ道ではなく、本を待つ人たちのために本屋になったのである。(p.266)
そもそも、なぜ本なのか、なぜ本の周辺の仕事を選んだのか。
様々な理由は付けられるが、
リハーサルやセッションの中で相手から提示される考えは、とても面白い。
人の方が本という存在に突き動かされている、というのは、モンテレッジォの人々に限らず、そうなのだろう。
自分も本に動かされて今の場所に来たようなものだ。
まだ道の途中にいる感じがしていて、留まるのかまたどこかに行くのか分からないが、その道ゆきを楽しみたい。
骨のはなし
生まれて初めて骨折をした。
こんな些細なことで、と思うきっかけで。
まあ、足の薬指にヒビ程度のものなので、見た目は分からないし、大したケガではない。
しかし、自分が予想していた以上に「生活に支障」は出てきている。
不自由である。
不便である。
しばらくは遠出はもちろん、近くの買い物もしんどいということが分かった。
まったくもって、「骨が折れる」とはよくいったものだ。
くたびれる。
「骨身にしみて」ます。
「骨のある人」という言い方もあります。
「骨太な」とは言うが、「骨細な」とは言わない。
骨に関する本で最初に浮かぶのはこちら。
子どものころ、6つ下のきょうだいが初めて自分で選んで買ってもらった絵本。
がいこつなんて怖いなと思っていたが、ページをめくると不思議に落ち着いた記憶がある。
静謐のなかで「くらし」を送る がいこつさんの姿は、少し自分に似ている。
雨の休日
休みの日の朝、よく雨が降った。
雨の日は音楽に身を預けたくなる。
かつて、よく通っていたまちに<雨と休日>というCDセレクトショップがあった。
童話や映画に出てきそうな、不思議な佇まいのお店だった。
西荻窪という場所によく似合っていたと思う。
「雨の日や休みの日」にとくべつ聴きたい音楽というのは確かにあって、
そういう日に聴いてほしい音楽を集めたというコンセプトにぐっとくる。
なくなってしまったと思っていたがオンラインでまだ続いていたのだな。
ただ、先のエントリでも書いたけれど、
「いま」の音楽の作り手を応援するという意味では、店頭のCD販売のみでは難しい。
現在の<雨と休日>に関していえば、ある視点から見た「文化を届ける」ことを目的としていると感じる。
雨そして音楽に関する本といえば、自分にとっては江國香織のエッセイ『雨はコーラがのめない』である。
まず、タイトルが素敵だ。
単行本は大和書房で出版されたが、そのレンガ色の装丁(本文中に出てくる曲名が書かれている)もよかった。
トリッキーなタイトルに出てくる<雨>の正体は、著者の愛犬のコッカスパニエルの名前である。
<雨>との生活の中で聴いた音楽の記録。
著者は、<雨>がいなかった時代の曲を<雨>とともに聴くことについて、何度も触れている。
好きなアルバムというのは、ずーっと、あるいは折にふれて聴き続け、たいてい自分の「定番」になる。 稀に、定番にならずにしまい込まれるものがあり、そういうものは、 聴くと瞬時に特定の時期およびその日々の状況、聴いていた部屋の 様子まで浮かんできてしまう。それは、現在に満足しているときに だけ、ちょっと愉しい「特別」になり、そうでないときは、たいてい気恥かしさやある種の痛々しさをつれてくる。(p.73 以下、引用は新潮文庫版による)
記憶と、そのときには全く知らなかった現在の自分とのギャップを、私はたのしいと思う。時間がたつのはすてきなことだ。たとえばかつては存在しなかった雨が、いまは存在する。(p.45)
雨の知らない日々の音楽を雨と聴いていることで、私はちょっと混乱する。雨を連れてタイムスリップしているような気がするからだ。(p.105)
この気持ちはとてもよく分かる。
一時期熱心に聴いた音楽たちが10年物、20年物になろうかという年齢になってみて、
その間出会わなかった人たちとその音楽を共有するとき、
自分のその時代とともに、その人が過ごしてきた別の時間を思って怯むことがある。
自分にとってなくてはならない、そんな音楽たちだが、
それらを最初に教えてくれた人たちとはもう縁がなくなっていることも多い。
でもその音楽が自分の年月を支えてきた。
そうして、 同じようにそれらの音楽に支えられてきた人に、また新しく出会っていく。
そして、歌詞をやけに憶えているのは、はまったからというのではなく、一曲ごとに物語がちゃんとある類の曲だからだ、と、気づいた。その物語と、この人の声の持つ温度や質感がぴったり合っているのだ。
だから本を読むみたいに聴けてしまう。(pp.74-75)
物語のある音楽と、物語のある本の、人に及ぼす作用は同じである。
何もかもを忘れさせてくれたり、
現在にいながらにして体験することができたり。
自分に合った物語があれば
音楽も本の中の出来事も
雨のように降り注いで、色々を洗い流して
頭の中心の中を さっぱりさせることができるのだ。