自分なくしの旅

訃報が続いている。

遠い世界の人にも、身近な人にも、である。

 

自分にとっては知らない人でも、毎日会っている人にとって特別な人だったとしたら、その余波は自分にもある。

同僚たちが何度も喪服に身を包んでいるのを見て、かなしみの連鎖を感じる。

 

このところの不安定な気候(同じ一日の中でも気温差がある)のせいか、いわゆる五月病の一種なのか、体調を崩している人も多い。

抜け出したいなあと思うと、ずぶずぶ沈んでしまうものだし、気持ちにしろ体にしろ、そんなにカキーンと持ち直せるものでもない。

 

そして生活はつづく (文春文庫)

そして生活はつづく (文春文庫)

 

 

 歌手、俳優、文筆業。

マルチなのかと思いきや、あれもこれもと仕事に精をだして生活はまるでダメという「残念な人」を前面に押し出しているエッセイである。

 

かつて新幹線旅のお供にと気軽に買って楽しんだが、今回再読し、「残念な」部分がいまの自分に結構あることに気づいた。

 

生活の変化によって、残念な人になっているぞ・・・。

 

全ての人に平等に課せられているものは、いずれ訪れる「死」と、それまで延々とつづく「生活」だけなのである。(pp.26-27)

 

忙しい毎日の中で、「上手に」生活を送っていくのは結構しんどい。

しんどい状態のときは、生活をうまく送れない。

堂々巡りになっていく。

 

「自分探しの旅」などとはよく言うが、私にとっては自分探しなんて孤独でつらそうなものより、積極的に「自分なくし」をしていきたい。(p.131)

 

ホシノゲン曰く、音楽や演劇をやっていくうえでの共通点は「自分がなくなること」。自分だとか他人だとかいうことがどうでもよくなる瞬間、解き放たれた状態のことだそうだ。


そうしてみると、私以外私じゃないの、などと思うことが苦しさのもとなのかもしれない。

 

「うわーひとりじゃなかった」と思う日が、来たりするのだろうか。(p.184)

 

前に読んだ時にはそんなに気に留めなかった部分だったが、今回はしみじみと共感してしまった。

 

いろんな人に支えられているな、と実感すればするほど、ありがたいな、と思う瞬間があればあるほど、こう感じてしまうのはなぜなのだろうか。

 

もう自分にも、「残り時間」が少ないと思うことが増えて、何ができるのかと考える。

 

容赦なく生活は続く。

 

本当になくなるときまで、「自分なくし」を模索しながら。