壁新聞

 

思考が常に混沌としているので、会話に脈絡がないと言われる。

「思い付き」に無意識下で常に飛びついている。

 

この本を選ぶことになったいきさつも思考の連鎖によるものだが、出発点は何だったかもう覚えていない。

とにかく吉田篤弘の本を読みたくなって、最初は別の本を目指して棚に向かったのに、隣にあった本を最終的に選んでしまったのだ。

 金曜日の本 (単行本)

金曜日の本 (単行本)

 

ひとつの掌編をのぞき、他は著者の実話で、12歳ごろまでの記憶がつづられる。

読んでいる間、幾度となく自分の体験をなぞるような気持ちになる。

 

全編にわたって、まぎれもなく本の話だった。

今取り組んでいる課題書のブレイク的に読もうとあえて薄い本を選んだのに、ばっちり関連書になっていた。我ながら「引き」が強い。

 

読んでいくと、とにかく著者の記憶力のよさに驚かされる。

そのクリアな記憶力と描写によって、自分の記憶も呼び覚まされる。

 

初めての立ち読み、最初に読んだ文庫本、布団の中で本を読む面白さの発見。

 

そして、「壁新聞」。

 

小学生のころ、自分も壁新聞を発行するのに熱中した時期がある。

担任の先生から考えると、多分2年生だったと思う。

 

A4の原稿用紙(緑色の小さい薄い資格がいっぱい並んでいて印刷機にかけると線は消える)に鉛筆で、書いた。

内容を考えて見出しを考えてレイアウトして・・・こんなに楽しいことないって思った。全員が完成した自分新聞の第1号は、後ろの掲示板にずらっと貼りだされて、いつでも読めるようになっていた。

休み時間や家で書いたものも貼ってよかったので、どんどん発行した。

日によって2号くらい発行したかもしれない。

あっという間に30号は越えて、おそらくクラスで一番発行数を重ねていたと思う。

子どもだから人に語れるような大した経験はなかったはずだけれど。

 

 「話すより書くことが得意」というよりも、

読むことによって繰り返し味わえる文章というものが大好きで、

それを自分で生み出せる「書く」ことに喜びを覚えていたのだろう。

 

大量の壁新聞はしばらく空き箱にしまわれていた。

大人になって読みたくなり探したが、どこかの引っ越しの過程で散佚してしまったようだ。

ノスタルジーのない親をもつと身の回りはすっきりしてよいが、

時々残念なこともある。

 

本とつきあうときはひとりでいることが重要なのだと子供ながらに気づいていた。(p.14)

 

よく図書館や書店、喫茶店で静寂を求められるが、それは静かであることが重要なのではなく、ちゃんと「ひとり」になれることが求められるからではないか。

たとえ賑々しくても、「ひとり」になれればそれでよい。

実際、自分が読書にもっとも没入した小学生時代、学校の休み時間の教室は、全然静かではなかったし。

本は読むことももちろん大事だけれど、その前に、自分ひとりで選ぶことが重要だった。選ぶことは見つけることで、できれば、そうして見つけた本を自分のものにすることーその愉しみを「金曜日の本」という言葉に託した。(p.117)

 

選ぶことと、 見つけること。

「読む」が注目されがちな読書行為のなかで、これはなかなか大事なことである。

 

金曜日の本。

 

金曜日に本の話をしよう、と決まったのも、偶然ではないのかもしれないな。

 

パラで生きる

 

パラレル

パラレル

 

長嶋有という小説家を知ったのはこの作品だった。

もう15年ほど前なのか、と驚く。

当時は自分も若く、作品は面白いと思ったし感銘を受けたものの、この主人公周辺の諦めともいえる雰囲気にはまだピンとこなかった。

今読むとまた違った感想を抱くのではないか。

 

いくつかの時代と

いくつかの人の組み合わせ

それらが平行して行きつ戻りつを繰り返して

ストーリーは進む。

 

作中に「パラで走らせる」というセリフが出てくる。

 

それはちょっとけしからぬ感じで使われてはいるのだけど、一定の距離を保ちながら決して交わらない、でも同じように走るという「パラレル」というのはそれ以降ずっと印象に残っている言葉。

 

伴走とか、平行とか。

「寄り添う」では近すぎる。

 

人に対して、一定の距離を保とうとする癖は以前からあった。

年齢を重ねるにつれてその傾向はますます強くなっている気がする。

若いころはそれを「冷たい」とか「寂しい」と言われることもあったが、

この頃はそう言われなくなった。

 

『パラレル』の主人公は、時代を行ったり来たりしながら

成長していないように見えるのだが、

それでも物語に小さくはない進展がある。

 

パラレルに生きることは面白いことだと思う。

 

あの山越えて

山は、すそのがよい。

 

そう思ったのは大きな山が見える今の土地に来てからだと思う。

 

とはいえ、大きな山は毎日見えるわけではない。

天候によってまったく見えない日もあるし、部分的にしか見えなかったり、シルエットが薄ぼんやりと浮かび上がっているだけという日もある。

 

実際の距離的には相当離れているはずの土地からの方がよく見えていたような気もするが、絶対にそこにあるのに「見えない」ことで、なぜか近しく感じて親しみを覚える。

今日はいないんだな、とか。いたね、とか。

 

先日遭遇した

「あの山を越えれば」という感覚も備わらない、どこまでいっても平野の風景

という言葉(大意)に胸を衝かれた。

 

「山派」か「海派」か以前に、そのどちらもない場所もあるわけだ。


遮るものがなく、その先にも何も見えるものがないと、かえってどこにも行けない気持ちになるのだろうか。

 

そういえば、子どものころ一番行きたくないのは砂漠だった。

 

暑いのは嫌だけれど、延々と同じ風景の中で幻の水に翻弄されながら歩くなんて耐えられないなって。

 

区切るってことが、人には安心なのだろうか。

 

そうではない

 

何かに出会いたいので、そうした予兆を風景の中に少しでも、探したいのかもしれない。

 

 

 

自分のものにするやり方

 

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)

 

 

人から読み終わった本の感想を聞くのもよいが、積ん読になっている本や、読んでる最中の本について語ってもらうというのも、面白い。
今日は馴染みの古書店店主が「現代において音楽を聴く方法」とからめて、上記の本の紹介をしてくれた。


自分はモノにこだわるタイプだし、きっとCDを買い続けるんだろうと思っていたが、ついに定額配信サービスを契約してみたという。

「モノ」としてのCDや本が、電子的な形式のものに移行していく時代において、人々はどうやって音楽を聴くようになっているのだろうか。
本の世界も他人事じゃない、と感じるような内容らしい。

確かに、お気に入りのアーティストの新作アルバムを発売日当日(もしくは前日)に、足を運んで買いに行った時代もあったのです。
ダウンロード時代に信じられない向きもあるかもしれない。

「定額で聴き放題で、聴いた分だけそのアーティストの元に還元されるらしい」

これを聞いて、この店主氏が配信サービスにトライしたのは、CD自体を制作することが難しい時代にどうしたらアーティストの支援になるのかと考えてのことではないかと感じた。

自分は、これまでポータブルの再生機器で交通機関での移動中に聴くことが多かった。
しかし、生活のエリアを大きく変えた関係で、これまで聴いていた局が入らなくなった。
二度とあまり聴くこともないだろうと思っていたCDアルバムを持っていったのだが、車の中で、部屋の中で、再度聴くようになったし、また、同じ趣味の人から、様々な楽曲を教えてもらい、インターネットからダウンロードして聴いた。
今ならばインターネットで契約すれば、エリア外のラジオ局も聴けるようになる。
音楽に関していえば、むしろ聴く機会は増えているかもしれない。
音楽を、自分のものにして聴くやり方は時代により確かに変わった。

本はどうだろうか。
欲しい本が分かっている人にとっては、インターネット書店は便利である。
しかし、本に関していえば、やはり出会い方はそれだけでは難しい。
コンテンツだけでなく、「モノ」としての側面から人に及ぼす効果も大きく、それが一定量あって様々な角度や視点から提供されている場というのは、様々な形であって欲しいと感じる。
そして、そうした場に、本の情報を共有できる人がいることは必要だと思う。
本には人がつきものだから。

閉じたものであるようで、双方向性どころではなく、多方向に向かって、開いているものなのだから。

人々が、それぞれに必要な本を自分のものにしていく。
そのやり方について、いい方法が(ひとつではなく)、きっとあると思う。

本の効用

本は、属性を忘れさせてくれる。

一度、日常の中にある「個」をなくしてくれる。

 

そうしたことにより、強烈に今の自分が見える。

日常の何気ない所作の中で、「思いつき」が時々降ってくる。

そうしたことのメモ書きにも、この空間がなればいいと思う。

本屋へ行く

仕事終わりで、課題図書を買いに本屋へ行った。

車を20分ほど走らせる。

居住区から一番近い、満足のいく品ぞろえの本屋はそこしかない。

広くはないが、新刊や話題の本であれば必ずあるという安心感。

着くと驚いたことに空いた棚がいくつも。

模様替えや、棚の入れ替えをする日だったようだ。

店内の検索機で調べると、「在庫僅少」。ともかく、あるらしい。

棚卸の最中でもあり、本の所在が分からなかったので、スタッフに探してもらう。

その間も他の棚を見る。

買うつもりなかったもう一冊も買ってしまった。罠か。

ああ、また積読本が増えてしまった。

 

東京の荻窪にTitleという本屋がある。

まだ行ったことはないのだが、いつか訪問してみたいと思っており、

店主氏のブログや書いたものをチェックして読んでいる。

先日はこんな記事が掲載されていた。

「他の書店で本を買わない奴は駄目だ」<本屋の時間>辻山良雄 - 幻冬舎plus

本当にそうだ、と思う。

 

Titleに行くことは、2018年の目標でもある。

 

 

セッション

月例セッションというのをやることになった。

トークセッションである。

こう書くと偉そうだが、気の置けない雑談である。

いちおうは明確なテーマ本を決めて、それを中心に話すのである。

互いに思考が整理されるのではないかという期待がある。

30分と区切っていたはずだけど、1時間超え。

ちょっと反省。

今回のセッションにおいて印象に残った言葉は「狭い視野」「崩す」。

読みたい本や読んだ本や積読中の本についても話したが、

その中にこの本もあった。

『かさねちゃんにきいてみな』(有沢 佳映)|講談社BOOK倶楽部

話したらまた読みたくなり、翌日早速入手して再読した。

小学校の登校班の話である。

朝集合して学校につくまで、1年生から6年生までが列になり、

安全に登校するために作られた班である。

(自分が通った都市部の小学校は残念ながら登校班がなかった。

ばらばらと登校していた。

なのでカラスや怖い犬から「ひなん」させてくれる上級生もいなかった。)

基本的に近所の子で構成されるが、まれに班が変わることもあるようだ。

主人公のユッキー(5年)の所属する「南雲町二班」は明らかに

問題を抱えている子が多い。

1年生のミツは前にいた班を「クビ」になって

父親が自転車で集合場所まで送ってくるし、

4年生のリュウセイは休みがちである。

そんな子たちをカリスマ班長・かさねちゃん(6年)がまとめている。

かさねちゃんは、「ちゃんとして」という魔法の言葉を持っている。

だれかが理屈っぽいことを言って「はんこう」しても、

それを叱ったりせずに納得いく言葉でおさめるすべも知っている。

「わからない言葉でも、ごめんなさいって言われたら、なんにも言われないと同じじゃないよ」(p.15)

 

ユッキーはかさねちゃんが卒業してしまったら、

自分が班長になって「こいつら」をまとめることに不安を持っている。

そのことを通して、「子どもじゃなくなること」すなわち、大人になることにも

不安を感じている。

ユッキーの眼を通して読み進むうちに、

自分も南雲町二班のメンバーになり列を組んで歩いている気持ちになる。

かさねちゃんは、大人にはぬぐいきれない子ども時代に特有の不安について、

豊富な知識と決然とした意志という形で安心を与える。

ユッキーは、大人も弱く、絶対的に安心な存在ではないことを知っている。

「ちゃんとして」ない大人もいるこの世界に、絶望もしているが、

大変フラットな考え方をしていると感じた。

 

この話では「物語」が重要な意味を持つ。

かさねちゃんには自分の生み出した「双子の冒険の物語」がある。

人に差し伸べることのできる物語を持っている人は強い。

かさねちゃんの物語は班のみんなも特に気に入っていてむちゅうだ。

かさねちゃんにとっても「おくの手」なのだ。

『かこにしはいされるものはみらいにもまたしはいされていることをしるべきだ』(p.108)

次郎(2年生)は、かさねちゃんの語る物語に出てきた長老のこの言葉に

「超感動」し、班の全員のぶんまで「ていねいに」メモに書いて配るのである。

仲間とか友達とは違うが「同じ班だから」。

共有した時間や物語の力で結びついている、そんなメンバーたち。

 

再読しても、色々なことを感じる本だった。

 

読むと分かるが、ハムを食べたくなる。

くるりの「ハム食べたい~」が脳内プレイする。

そう、「水玉のハム」食べたい。