雨の休日

休みの日の朝、よく雨が降った。

雨の日は音楽に身を預けたくなる。

 

かつて、よく通っていたまちに<雨と休日>というCDセレクトショップがあった。

shop.ameto.biz

童話や映画に出てきそうな、不思議な佇まいのお店だった。

西荻窪という場所によく似合っていたと思う。

 

「雨の日や休みの日」にとくべつ聴きたい音楽というのは確かにあって、

そういう日に聴いてほしい音楽を集めたというコンセプトにぐっとくる。

なくなってしまったと思っていたがオンラインでまだ続いていたのだな。

 

ただ、先のエントリでも書いたけれど、

「いま」の音楽の作り手を応援するという意味では、店頭のCD販売のみでは難しい。

現在の<雨と休日>に関していえば、ある視点から見た「文化を届ける」ことを目的としていると感じる。

 

 

雨そして音楽に関する本といえば、自分にとっては江國香織のエッセイ『雨はコーラがのめない』である。

 

雨はコーラがのめない

雨はコーラがのめない

 

 

雨はコーラがのめない (新潮文庫)

雨はコーラがのめない (新潮文庫)

 

 

まず、タイトルが素敵だ。

単行本は大和書房で出版されたが、そのレンガ色の装丁(本文中に出てくる曲名が書かれている)もよかった。

 

トリッキーなタイトルに出てくる<雨>の正体は、著者の愛犬のコッカスパニエルの名前である。

<雨>との生活の中で聴いた音楽の記録。

 

著者は、<雨>がいなかった時代の曲を<雨>とともに聴くことについて、何度も触れている。

 

好きなアルバムというのは、ずーっと、あるいは折にふれて聴き続け、たいてい自分の「定番」になる。 稀に、定番にならずにしまい込まれるものがあり、そういうものは、 聴くと瞬時に特定の時期およびその日々の状況、聴いていた部屋の 様子まで浮かんできてしまう。それは、現在に満足しているときに だけ、ちょっと愉しい「特別」になり、そうでないときは、たいてい気恥かしさやある種の痛々しさをつれてくる。(p.73 以下、引用は新潮文庫版による)

 

記憶と、そのときには全く知らなかった現在の自分とのギャップを、私はたのしいと思う。時間がたつのはすてきなことだ。たとえばかつては存在しなかった雨が、いまは存在する。(p.45)

 

雨の知らない日々の音楽を雨と聴いていることで、私はちょっと混乱する。雨を連れてタイムスリップしているような気がするからだ。(p.105)

 

この気持ちはとてもよく分かる。

一時期熱心に聴いた音楽たちが10年物、20年物になろうかという年齢になってみて、

その間出会わなかった人たちとその音楽を共有するとき、

自分のその時代とともに、その人が過ごしてきた別の時間を思って怯むことがある。

 

 

自分にとってなくてはならない、そんな音楽たちだが、

それらを最初に教えてくれた人たちとはもう縁がなくなっていることも多い。

でもその音楽が自分の年月を支えてきた。

そうして、 同じようにそれらの音楽に支えられてきた人に、また新しく出会っていく。

 

そして、歌詞をやけに憶えているのは、はまったからというのではなく、一曲ごとに物語がちゃんとある類の曲だからだ、と、気づいた。その物語と、この人の声の持つ温度や質感がぴったり合っているのだ。

だから本を読むみたいに聴けてしまう。(pp.74-75)

 

物語のある音楽と、物語のある本の、人に及ぼす作用は同じである。

 

何もかもを忘れさせてくれたり、

現在にいながらにして体験することができたり。

 

自分に合った物語があれば

音楽も本の中の出来事も

雨のように降り注いで、色々を洗い流して

頭の中心の中を さっぱりさせることができるのだ。