ある編集者
東京に行ったときはなるべく美術館の展示をいくつか観るようにしている。
今回はまず編集者・小野二郎の展示を観に世田谷美術館を訪れた。
実をいうと、小野二郎という人物については全く知らなかった。
本の界隈にいながらそれはダメなことかもしれないが、であるからこそ興味を持ったともいえる。「編集者」として美術館で展示テーマに取り上げられるなんて、多くはいないのではないか。
展示はとてもよかった。小野に関連した本、本、本。
ウィリアム・モリス、そして高山建築学校の展示も興味深かったけれど、そうした多角的な視点からの構成をもってしても、小野の手がけた「本」の存在感は大きかったのだろうと思う。
展示ポスターにもなっている平野甲賀の装丁は、どれもおしゃれだった。甲賀フォント以前のものも、他にないデザインだと思う。
モノとして目にして「いいな」と思えるもの。その力は時を超えて迫ってくる。
文庫化され現在も親しまれている本の、初版におけるかっこよさ。
どうしてこのままじゃないのかなあと思ってしまうけれど。
小野は52歳で急逝したが、もしそうでなかったら、どのような本が世に出ていただろうかと考えてしまう。
鶴見俊輔や、長田弘が寄せた言葉を読み、その人となりを想像する。
この人に私は会ったことがない。
しかし、この人に心をひかれた。
著書を読む前に、そういう存在に対する好意を、
ひとつの偏見としてもっていた。
その偏見を、著者はうらぎらなかった。
つくった本、やった仕事よりはるかに、
未定の本、未定の仕事を、
ここに置いたままにしていった大男。
(長田弘)
会場には、小野にあてて送られた文筆家たちによる葉書も展示されていた。多くは、小野により献本された書籍に対するお礼状。感想も述べられており、読んでいくと書き手の個性が感じられ、面白い。
折しも、出版業界における献本の風習(?)と、それに対する御礼コメントをSNSで拡散することが話題となっていて、そんなことも思い出した。
本展示で何が良かったのかと振り返ってみれば、展示物により、その人の為した「しごと」の全容が浮かび上がるように思ったことだろう。
全容を把握しつつ、それぞれに近づけば、より細部を知ることができる。
生前の小野は冗談で、やらなくてはならない仕事がありすぎる、80歳までは生きないとと言っていたそうだ。
晶文社を立ち上げる前に、弘文堂にいた小野は、「現代芸術論叢書」というシリーズを手掛けていたが、その巻末続巻予告のページがわざわざ展示でクローズアップされていた。続いて出ると予告されながら、16タイトルが未刊行となったそうだが、それを観ると、アイデアが次々生まれるなんてすごいと思ったり、このページを指し示すことで、小野の発想力を知らせようとした展示会の企画者にも感心した。
僕の人生の今は何章目くらいだろう
そう歌う曲を、実感をもって聴くようになった。
自分に残り時間がなくなったあと、
このように「成したこと」を広げ、次世代につなげられるだろうか。
ああ、時間がない。