セッション18

「生き延びる秘訣は、自分が迷子だと知ることだから。」(p.17) 

迷うことについて

迷うことについて

 

今回の課題本は、本セッション2度目の登板となるレベッカ・ソルニットの新刊である。だが、実は原著は2005年に出ていたものを遡って邦訳したものだそうだ。

帯をつけていても一体感のある装幀、なんといっても帯文に書かれている言葉がよい。砂浜と海のような、境界線があいまいな淡い色合いも好きだ。

「いつでも〈不可思議の際〉に、未知との境に生きよ」(p.10) 

 ロバート・オッペンハイマーの言葉を引いた言葉だが、表紙の装丁がまさに「不可思議の際」「未知との境」を表現したものだと感じられた。

「あわい」という読みの言葉は「淡い」のほかにもある。向かいあうもののあいだ、二つのもののあいだという意味の「間(あわい)」である。そんな、二つの意味を同時にあらわしているかのようなビジュアルがとてもいい。

読み進んでいくと、著者が随所でダブルミーニング、トリプルミーニングで物事を捉えていることを意識させられる。この本のテーマである「迷う」ということについても。

迷った=失われた(ロスト)という言葉には、本当は二つの本質的に異なる意味が潜んでいる。「何かを失う」といえば、知っているものがどこかへいってしまうということだが、「迷う=〔自分が〕失われる」というときには見知らぬものが顔を出している。モノや人はーブレスレットとか友人とか鍵とかー視界や知識や所有をすりぬけて消えてしまう。それでも自分がいる場所はわかっている。失くしてしまったモノ、消えてしまったひとつのピースを除けばすべてよく知っているとおりだ。一方で、迷う=自分が失われるとき、世界は知っているよりも大きなものになっている。そしてどちらの場合も世界をコントロールする術は失われている。(p.30-31)

「迷う」ということを、人はネガティヴにとらえがちだ。私自身もそうである。

例えば店で気に入った服があったとして、色違いがあるとたいてい迷ってしまう。自分の判断に自信がないのか。今より若いころは、人との食事の際にオーダーが決められないこともしばしばだった。友人と旅行した際には最終日に「後悔したくないから迷うのだ」と指摘されたこともある。

セッションの中で私は、「この本を読んでいると〈迷う〉ことについて、嫌な感じがしない」という感想を述べた。どこか潔いのだ。

それは、その根底に「未知」であること、謎であることと、自分というものの境を見つめる視点があるからなのではないか。

 

この本は、切り口もだが構成も巧みである。

遇数章のタイトルがすべて「隔たりの青」とされているのには、ぐっときた。奇数章がより著者の個人的な思い出を題材とし、ドラマを含むものだとすると、「隔たりの青」はそれを一度鎮静させるかのような役割があるように思う。

もともと、先人の言葉の引用が多い著者だが、引用された文献、地図、事象など、もしこの本に図版があったらさぞ理解を助けるだろうと思いながら、そのことによって訴える力が変わってくるだろうとも考える。

図版そのものが引き込む力が勝ってしまい、著者の紡ぐ言葉をこんなにも味わえただろうかと。それほどに、ソルニットの言葉は私に心地よさを与えてくれるのだ。

特に「隔たりの青」の章にはそんな言葉たちが散りばめられていて、ソルニットの紡ぐ様々な美しい青ー地平性の青、空の青、地表の青、世界を包む青を見ているかのようで飽きない。

「わたしたちはこの隔たりを、友情によって織りなされたこの距離を愛することにいたしましょう。なぜなら、互いを愛することのない者は隔てられることもないのですから」。(p.38)

これは、シモーヌ・ヴァイユが太平洋を隔てて友人に宛てた手紙の一節だそうだが、距離によらず「隔たり」があるのが、この世の中だ、と著者はいう。

「望みは無限の隔たりに満ちている、だから憧憬(ロンギング)という」(p.37)

こうしてみると、隔たりを感じながら迷うことが、単に寂しく心細いものではなく、どこか嬉しく美しいもののようにも思えてくる。

 

未来の自分を考えたとき、誰しも迷うことはある。

人は未来に目を凝らし、現在がそのままの調子で見通しよくつづいていけばいいと思う。けれど、少しでも過去をみてみれば、変化はほとんど想像できないほど不可思議な回り道を辿っていることが明らかになる。(p.134) 

相棒はこの本における「時間軸」について、たびたび触れていた。思ったより時間軸に引っ張られている章があり、「選べない子ども時代」について考えたという。

いつからが「自分で選んだ」と言える人生なのか、それは人によって違うと思うが、たとえば子どもの頃の進路について、自分では選ばなかった、選べなかったと思い込んでいても、実は何かしら自分で選んだことの結果なのだと最近では思うようになった。

もちろん、環境は選べないことの方が多い。自分も、親の都合で転勤をして、友達が皆無の田舎の土地に移り住んだ結果、図書館通いをし、本ばかりを読むようになった。その結果、現在の関心事は本が中心であるわけだが、一方で都市部にいても同じところにたどり着いていたような気もしている。

わたしたちはまるで、例外を法則のように取り違えて、いずれすべてを失ってゆくということよりも、たまたま失われずに残っているものを信じているようだ。わたしたちは、落としたものを頼りにして、もう一度帰ってゆく道をみつけることができてもよいはずだ。森のなかのヘンゼルとグレーテルのように、時間を遡る手掛かりを辿り、喪失をひとつずつ埋め合わせ、失くした眼鏡から失くした玩具へ、そして子どものころ抜け落ちた歯へ戻ってゆく道を。(p.204)

ヘンゼルとグレーテルが落としていたもの、それは「時間を遡る手掛かり」だった。自分にとって、その手掛かりとは一体なんだろうか。

たとえばわたしが自分の人生にほんとうに注意深くなると、今日この後に起こることも自分にはわからないし、それを乗り切る自信もあまりもっていないことに気づくでしょう。わたしたちの心はそういう考え方を呼び込んでしまいがちです。それは故ないことではありません。はっきりと知ることはできないけど、たぶん、いつもとそれほど違うことではないだろう、だから大丈夫だろう、そうやって、不安な可能性に分別ある答えで蓋をする。<中略>

それはわたしたちが心のなかで繰り広げている対話や、内面を通り過ぎてゆく物語や、心を通り抜けていく感情のドラマです。そしてこの領域では、物事はそれほどきちんと整ったものではなく、あえていえば、安全でも道理に適ったものでもないということを知るようになります。(p.218)

この頃の自分のことを言われているように感じながら、少し前に読んだマンガのことを思い出していた。 頭の中でぐるぐると迷い続けている人の話である。

脳内ポイズンベリー 1 (クイーンズコミックス)

脳内ポイズンベリー 1 (クイーンズコミックス)

 

自分の中で色々な迷いが分散して、擬人化され、それぞれの感情がけんかしたり、小狡い感じに妥協しあったり、協力し合い「会議」を行っているという設定である。

脳内会議のメンバーたち(それぞれの感情)は、議論し、過去を振り返ったりもする。

(しかし結果的に主人公は暴走してしまい、神経をすり減らして不安定さに磨きがかかってしまう)。私のなかでは「迷うこと」を上手に映像化している作品と感じた。

 

時間軸を遡り、著者の過去を追体験し、青の隔たりに浸されながら、迷うことについて考える旅。著者のソルニットは最初の章において、「ここから先は、わたし自身が描いたいくつかの地図だ」と宣言している。

それらの地図において、自分にとって直接明確な発見があったわけではないが、思索することにおいて色々「作用」した。読み終えたとき、この旅を閉じることを名残惜しく感じた。

自分も、こんな地図が描けるくらいになれたらと思う。

そのために、生き延びるための秘訣と捉えて、迷うことをもう恐れないでいたい。