セッション15

 良く知っているようで知らないということは、この世の中にまだたくさんある。

われ思う、ゆえにわれあり

これはデカルトの大変に有名な一節だ。しかしこれだって、どのような文脈の中で使われていたのか知らなかった。これまで本編を読んだことがなかったから。

読もうと思ったきっかけは、本を入れて贈るというコンセプトの紙袋である。

先人の名言がプリントされているシリーズで、その中のひとつがデカルトの言葉だった。 

良き書物を読むことは

過去の最も優れた人達と

会話をかわすようなものである

(ルネ・デカルト

この一文は何に載っていたんだろう、とウェブ上で検索してみたら『方法序説』だということが分かり、読んでみることにした。

デカルトがこの本を書いたといわれる年齢が自分と近かったということもある。

およそ300年以上も隔てた過去の人とどんな会話ができるだろうか。

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

大きな魂ほど、最大の美徳とともに、最大の悪徳をも産み出す力がある。また、きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。(p.8)

冒頭からどきっとさせられた。

哲学者たちは、いつもきっぱりと言い切っている気がする。

本書の著者デカルトについて言えば、なんとまあ自信満々な、という印象も受ける。

自分は、まっすぐな道をたどることなどできたためしがない。

実際に方向音痴であるけれど、思考においても生きかたにおいても走っているつもりながら往々にして道をそれてしまう。いつも回り道だ。どこへ向かうかを知らないならどの道を行っても同じこと、ではあるが。 

すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。(p.13)

件の一節が出てきたが、続く文を読んでみて、おや、と思った。

デカルトは、過去の人びとと交わることは旅をするようなものであるが、旅にあまりに多くの時間を費やすと、自分の国で異邦人になるし、過去のことに興味を持ちすぎると、現在行われていることについて「ひどく」無知なままになってしまうと言っている。

旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヵ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。

≪中略≫

そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思ってやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである。(p.37)

最近になって、ここで言われていることの境地が分かってきた気がする。最善なルートを行くことよりも、「ともかく最後にはどこかへ行き着く」ことを第一義としていれば、不安や後悔はそんなに感じない。

哲学を学ぶ。

そのことをもっと身近なものにできたらいい。

むかしむかしの賢い人たちが、何を思い、どのように生き、何を伝えていったのか。

300年もの前の人と会話する、そのことが「読書」という行為によって、さりげなく自然に行われていることがすごい。 

 

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な事柄でさえ、推論をまちがえて誤謬推理をおかす人がいるのだから、またしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべての偽として捨て去った。最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(p.46)

 

私は考える。故に存在する。

考えるためには、存在しなければならない。

 

何が「真」であるのか、そのことを考えようとするほど、よく分からなくなってくる。

ただ、「私」ということ、「考える」ということは、そのことと密接につながっているということは分かる。

 

「私」とは、なんなのだろう。

そう考えたとき思い出した絵本があった。

www.fukuinkan.co.jp

 

 長新太は、大人になってから知った絵本作家である。

子供のころに与えられた絵本、自分で選ぶ絵本の中には、長新太作品はなかった。元同僚におもしろいですよと教えてもらって知った。教えてもらわなければ、知ることがなかったか、知るのがもっと後になっていたと思う。

テキストは谷川俊太郎。相手が変わると「わたし」の呼び方もまた変わることを分かりやすく表現している。

デカルトにしても、谷川俊太郎にしても、「わたし」ということの見方を変えることで

大きく世界が変わるという点では同じだ。

人は生きている限り、自分とは何かとか、どのように生きるのが正しいのかを追い求めようとする。

ある人と会話しているときに、別の誰かとの会話の断片を思い出したりすることがあるが、読書においてもたびたびそういうことがあって、そうした時にとても嬉しくなるのだ。ああ、あの人とも話したんだった。というような。

 

デカルトの書いた本書を読んで思うのは、終始自分に対してポジティブだということ。あまりに自信がある風なので笑ってしまうくらいだ。

しかも遠慮なく言えば、わたしの計画を終局まで完全になし遂げるには、あと二つ三つの同じような戦いに勝利を収めさえすればよいと考えているし、わたしはそれほど年をとってもいないから(この時四十一歳)、自然の普通の流れからゆけば、これを実現するためにまだ十分な時間的余裕を持つことができる。しかしわたしは、残された時間をうまく使えるようにという希望が強いだけに、いよいよそれを無駄なく使わなければならないと思う。(p.89)

自分自身はもう時間があまりないなあと思っていたりするのだけど、この時代は今より寿命が短かったはずなのに「まだ時間的余裕を持つことができる」と言えるなんて。

「あと二つ三つ勝てばいける」って、豪語できることがすごい。

 

残された時間をうまく使いたい。

どうしても寄り道が多くなるので、無駄なく、というのは自分には少し無理そうだけれど、それでも努力をしていかねばなあと思う。

 

考えるということで自分は在る。

さまざまな人と話すことで自分は多義的な存在となり得る。

 

過去の人とも今の人とも、自在に対話できる本というものは、やはり面白い。