セッション17

この本がいいねと君が言ったから8月中はキリン月間

・・・実話です。今月の課題本は「キリン月間だから」と相棒がさっさと決めてくれました。

キリン解剖記 (ナツメ社サイエンス)

キリン解剖記 (ナツメ社サイエンス)

 

この本は出たときからだいぶ話題になっていたので、読みたいと思ってはいた。

物心ついたときからキリンが好きで、キリンの研究者になる!と決め、めでたく実現した人の話である。といっても、10年間で30頭ものキリンの解剖を行っているというのだから、並の人物ではない。変な人に違いない。

そう思っていたのだが、読んでみると想像していたより楽しい本だった。読んでよかった。 とにかく、一冊のすみずみまで著者の「楽しい」があふれている。

まずは本の佇まいから。軽やかというか、気軽な感じがする。

実は、自分は子どものころから図鑑などのリアルな図が苦手で、それは植物でも動物でも同じ。真に迫る葉脈とか骨格とか、筋肉とかの筋など見ていられないのだ。

そんな自分でも、本書は解剖学に関する本でありながら、重要なキリンの首の説明などもソフトタッチのほのぼのイラストで表現されていたので読みやすかった。テーマがはっきりしている分、こうした本そのものがもつ柔らかさや親しみやすいイメージは、読み手を広げるうえで大切だと思う。

内容もこのシンプルなタイトルを裏切らない内容で、キリンを研究するに至ったいきさつから始まり、時系列でキリンの解剖をした記録となっている。

読んでいくと、一方では「生き方」について考える本でもあるなと感じた。

私よりもはるかに優秀な友人が研究者になるべく動き出しているのを目の当たりにして、「そうか、もう将来の夢を実現するために動き始める時期なのか」と初めて意識した。それと同時に、4年間の大学生活を通して、この先40年以上もの長い時間を費やす職業を選択しなければならないことにも気がついた。(p.36)

自分が学生の時にそこまで考えていただろうか。

大学で学んでいる研究分野のその先に、職業が見えてこない分野であるからかもしれないが、「この先40年」などとは全く考えていなかったはずだ。

「一生楽しめることがいい」そんな風に考えてもいなかった。ただ漠然とした不安だけ。 

一度解剖を始めたら、事前の不安な気持ちなど吹き飛んで、夢中になっていた。嫌悪感や罪悪感などは全くなかった。

<中略>

 知的好奇心が刺激され、満たされていく気持ちよさが脳内いっぱいに広がっていった。解剖すればするほど、その動物のことをどんどん好きになっていくような気がした。(p.45)

自分には解剖の経験はないし、解剖したところで同じ境地には絶対到達できないと思うが、「知的好奇心が満たされる気持ちよさ」は経験したことがある。その、満たしてくれた原因となるものについて、どんどん興味がわいていくという状態も分かる。

それにしても、生まれながらの研究者というのはこうした人のことを言うのであろうか。もちろん努力は必要だけれど資質がないとなれない職業(?)かと思う。

 

本書のなかで著者は、動物たちの年齢について何度か触れている。

特に「年上の」動物たちに対する思いは、研究を支える力の一つとなっているように思える。

私の年齢はすでに現在の国内最高齢キリンの年齢を上回ってしまったので、もうこれからは年上のキリンと出会うことはない。だからこそ、これまでに向き合ってきた年上のキリンたちには、ほかのキリンとは違った特別な思い入れがある。(p.48)

 井の頭自然文化園で69歳で亡くなったゾウのはな子も、著者にとっては親しみのある「年上の」動物だった。

科博の収蔵庫では、ゾウの骨格標本とキリンの骨格標本は隣り合って置かれているので、キリンの標本を見に行くと、はな子の標本が必ず目に入るようになっている。ほかのどの標本よりも生前の姿をよく知っている個体なので、用がなくても近づき、意味もなく骨を触ってしまう。(p.54)

 私自身も、井の頭のはな子は「生まれて初めて見た」ゾウだと思う。物心ついた時からおばあちゃんなんだよ、とずっと言われてきたはな子。

記憶の中でずっと自分にとっては「おばあちゃん」だったなんて、親戚の関係性みたいだ。そんなことを思いながら、意味もなく骨を触るしぐさを自分も文中でなぞる。

そうか。解剖を行うとき、著者は動かぬ物体を相手に作業を行っているのではなく、動いていた・元気だった、その個体の生きていた事実と向き合っているのだ。

 

以前『エコラリアス』の回でも書いたが、自分は「層」が好きだ。

mi-na-mo.hatenadiary.jp

本書でも「層」が登場する。

 解剖は、基本的に表層から深層へと向かって進めていく。深層の筋肉を観察するためには、表層の筋肉を剥がしていく必要がある。

 首の最も 表層を通っている紐状の細長い筋肉をつまみ、どこからどこへ向かっているかを確認する。解剖書と照らし合わせ、散々悩んで「これは板状筋だ」と結論づけ、取り外す。それなのに、深層の解剖を始めると、さきほどの「板状筋」らしきものが再登場したりする。(p.68-69)

深層だと思っていたのに、表層のときと似たものが出てくる。まだ深層には至っていない。深層というものは、なかなかに探り当てるのが難しいもののようだ。

自分は概念的に使われる「層」に惹かれるのだけど、本書における「層」は非常に物理的である。筋肉が「層」であると記述することで、筋肉が、単なる立体的な身体の一部ではなく、働きや構造が一気にイメージできる気がした。

 

本書を読んでいると、時を重ねてバトンのように知識をつないでいくことの意味や、時を超えて同じものを見つめることのできる不思議さについても、コラムという形で述べられている。

オーウェンの論文を読み、「私が解剖で見ている構造は、100年以上前にオーウェンが目にしたものと同じなんだ」という当たり前のことを初めて実感した。

 長い時間を経て、同じ構造を見て、同じ感想を抱く。すごく不思議な気分だ。そしてなんだか、すごく嬉しい。生まれた時代も場所も異なるオーウェンと、会話をしたような気持ちだった。(p.113-114) 

知識との出会いは、しかるべきときに実感をともなって、ということがとても大切なのだと思う。著者は別のところでも、ある論文をめぐって、最初の出会いの時はスルーしていたが時間を経て、意味のあるものとなったと書いている。

また、人との出会いについても

以前、先生が「人生において本当に大事な人間とは、どんな道を選んでも必ず出会う」と言っていたが、確かにそうかもしれない。(p.110)

と書いている。

もう若くないなと感じる自分くらいの年齢になると、「もっと前に出会いたかった」と思うようなこともあるが、やっぱり会えたじゃん、と思うほうが先の人生が楽しいものになる気がする。

著者は、博物館の「標本をつくる」という仕事について、「3つの無」という理念を紹介している。

無目的、無制限、無計画。

「人間側の都合」で、収める標本を制限してはならないということ。

たとえ今は必要がなくても、100年後、誰かが必要とするかもしれない。その人のために、標本を作り、残し続けていく。それが博物館の仕事だ。(p,212)

「いつか」のために保存する。「いつか」の人のために、見つけやすいために、整理する。

いつか誰かが見た景色を見る。本を通じて、古の友人たちと会話する。

昔の私と今の私。その「二人」だって会話できる。

本書を開いた時に、カバーが大きく外れてしまった。すると、茶色に銀色の線で、幼い子がキリンに手を伸ばしている姿が大きく表れたのだ。ひょいと裏返すと、今度はキリンの骨を眺める大人の女性が。自分は帯を外さないで読んでいたので、表紙にもこの二人がいることに気付かなかった。相棒はとっくに気付いていたようだけれど。

2017年、2018年に参加した人体解剖の勉強合宿では、先生から幾度も「ノミナを忘れよ」と念を押された。ノミナ=Nominaとは、ネーム、つまり「名前」という意味をもつラテン語である。筋肉や神経の名前を忘れ、目の前にあるものを純粋な気持ちで観察しなさい、という教えだ。(p.75)

目の前にあるものを純粋な気持ちで見る。

そういう風に生きていけたらと思う。