あの山越えて

山は、すそのがよい。

 

そう思ったのは大きな山が見える今の土地に来てからだと思う。

 

とはいえ、大きな山は毎日見えるわけではない。

天候によってまったく見えない日もあるし、部分的にしか見えなかったり、シルエットが薄ぼんやりと浮かび上がっているだけという日もある。

 

実際の距離的には相当離れているはずの土地からの方がよく見えていたような気もするが、絶対にそこにあるのに「見えない」ことで、なぜか近しく感じて親しみを覚える。

今日はいないんだな、とか。いたね、とか。

 

先日遭遇した

「あの山を越えれば」という感覚も備わらない、どこまでいっても平野の風景

という言葉(大意)に胸を衝かれた。

 

「山派」か「海派」か以前に、そのどちらもない場所もあるわけだ。


遮るものがなく、その先にも何も見えるものがないと、かえってどこにも行けない気持ちになるのだろうか。

 

そういえば、子どものころ一番行きたくないのは砂漠だった。

 

暑いのは嫌だけれど、延々と同じ風景の中で幻の水に翻弄されながら歩くなんて耐えられないなって。

 

区切るってことが、人には安心なのだろうか。

 

そうではない

 

何かに出会いたいので、そうした予兆を風景の中に少しでも、探したいのかもしれない。