セッション21
富山を旅したことがある。
水が美味しくて、だから炊いたお米も地ビールも美味しくて、お魚も美味しくて、とても幸せな旅だった。
旅をするならよい場所でも、住んでみると息苦しい。それは地方にありがちなこと。
パブリックの次に「ローカルで生きる」が関心事なので、この本は気になっていた。
つるつる、ざらざら、グレー(濃淡あり)、白。
この本に綴じられた紙はさまざまだ。明るいとは言えないグレーのグラデーションは、北陸の空を思わせる。
19歳のとき大学進学のために富山を出て東京に行き、大学卒業後に一度帰郷するものの、「映画を作りたい」と23歳で再び上京した「私」。
しかし、就職した映画制作会社を一か月で辞め、雑誌編集者となり6年間を過ごした後、29歳目前で富山へ帰ることとなる。
本当の夢はなんだったのか。本当は東京で何をしたかったのか。今となっては忘れてしまった。そもそも何もなかったのかもしれない。
《中略》
それは夢が破れてしまったからとか、東京に負けたからではなく、「富山に戻るということは、いよいよごまかしがきかなくなる」と思って、怖くて泣いた。
いつでも手を広げて私を迎え入れてくれたはずの故郷は、東京以上に未知で、なおかつ逃げ場のない恐ろしい場所であることに、変える間際になって初めて気がついた。(p.39)
「ごまかしがきかなくなる」。
その怖さに共感する。年齢が上がっているわりに経験値が追いついていないのではないかということとか、環境の変化とかもあるが、地方独特の「目」みたいなものだろうか。地方にいると、東京などの都会にいるときには感じない緊張感があるのは確かだ。
著者に関していえば、自分と文化的に重なる部分が結構ある。
「岡田あーみんの漫画が好き(p.55)」なこともそうである。
自分はギャグ漫画、お笑いの類に鈍い(笑いどころが分からない、引いてしまう)のだが、岡田あーみん作品については、振り切れすぎてて もう笑うしかなかったので、すごく印象に残っている。案外と寡作なところもミステリアスなところも含めて好きだ。
著者への影響は、本書の言葉遣いの端々にも感じられて、それがまた読んでいて面白く思える。たとえば、「歩くパワースポットのような人」(p.88)という表現であるとか。
富山には「旅の人」という方言がある。それは文字通り富山を訪れた旅行客という意味もあるが、大概において、他県から富山にやって来た移住者を指す。
《中略》
「旅の人」という方言は廃れていくのかもしれないが、だからといって自分たちの中に排他的な気質がなくなるかといえばそうではない。
「富山のことなんて知りもしないくせに・・・」
富山に戻ってきた当初はよそ者として疎外感を感じていた私自身、今では県外から新規参入して来た人々の華々しい活躍に、陰湿な眼差しを向けてしあうこともある。自分が通い詰め、愛でてきた場所を部外者に荒らされるのが気に食わない。富山に根ざして生きようとすればするほど膨れ上がる縄張り意識は、私がかつて「鬱陶しい」「厄介だな」と思っていた類のものだった。(pp.102-103)
「風の人」は、「お客さん」というより、一瞬素敵な感じに思えるけど、どっちにしろ「あの人たちは別」という意味があるのだとしたら、排他性が分かりにくい分、厄介かもしれない。
著者は、そんな「風の人」が集うドライブインレストランを営む人を通して、間口の広い空間のことを考察する。
私は街に汎用性の高い枠組みを置くことが、さまざまな”旅の人”を受け入れることになるとは思わない。全国共通の白いハコを置いたところで、人や空気が澱んだり、交わったり、ぶつかりもせず、単に通り過ぎていくだけだ。本当の意味で間口が広く、フラットであるというのは、煮え煮えのアクを出すコミュニティ同士が、個性を奪われることなく平穏に共存していることだ。(p.107-108)
自分も、「ハコ」と人の集まりの関係性について、常々考えているのだが、その思いをこれほどスパッと言い当てられたことはなかった。
「煮え煮えのアクを出すコミュニティ」という言い方がすごくしっくりくる。
「アク」というのは著者のキーワードとなる言葉のようで、著者自身も「文章のアクが強い」と言われたりしている。確かに読んでいて時々「濃ゆいな」と感じる。「!」が多用されているのもあるだろうか。もちろん不快なわけではなく、むしろ痛快。
「本を作るのがおこがましいって言うけど、あんたは既におこがましいが。人に何かを伝えたいって思っとる時点で、おこがましいが!そのことをそろそろ受け入れられ。そして恥をかけ!」(p.118)
著者の母の言葉である。痛烈にして痛快である。読んでいて、言われた本人のように背筋がのびる気がした。くよくよとした自分の人生に関する悩みとは、たいてい「おこがましい」ものなのかもしれない。そう思うと開き直れる気がする。
とはいえ、基本的に著者は富山という地で文化的な渇望があり、ずっと鬱々としている。そうした時に、共通の語り合える話題をもてる人々と出会って、はしゃぐのも無理はない。「痒い所に手が届くカルチャートーク」(p.124)は、経験した者には「分かる分かる」と膝を打ちたくなる表現だ。
新しい知識や見え方を与えてくれる人との出会いは代え難く貴重だが、それとは別に自分が好きなことについて、「ツーと言えばカー」と話せるような人の存在は、楽に息ができる感覚で、ほっとする。相棒との本や音楽の話をするときの時間も自分にとってはそうなのだ。
彼らの話を聞いているうちに、私は外から来る風を受け入れて、自分の新陳代謝を促そうとするのも、敢えてシャットアウトして自分の場所の密度を高めようとするのも、フットワーク軽くこちらから外へ出向くのも、全部正解だと思った。要はどれを選択するかだ。(p.126-127)
自分はどうか、と思った時に、どちらかと言えば、「外へ出向く」方だなと感じている。外から来る風を受け入れられるような人にも、密度を高める人にも、憧れはするが、ふわふわと素敵な場所と素敵な人に出会いたい。そこで何かの種をお土産として持ち帰って植えたい、そんな気持ちでいる。
最後の方に出てきた、ケロリンで有名な富山の製薬会社社長・笹山氏の言葉はどれもすごくよかった。
「文化や芸術というものは、理性や論理では語れないと思います。ダメで、偏愛的で、マイノリティだったりする。だからこそ、それを受け入れる図書館や美術館には、公共性か必要だと思います。それは観光資源化という意味ではない」(p.202)
笹山氏の経歴は特殊だ。その各ステージごとに得難い体験をされたことがうかがえるが、そこに「閉じたコミュニティに埋没しない」「染まってなるものか」という強い意思、マイノリティでいたい、だけど疎外感を感じ続けているという矛盾。芸能史を研究し、著書も出されているということで、今後読んでみたいと思った。
「どこにでもあるどこか」を、本当の意味で味わうには、やはり富山を訪れるのが一番かと思う。
天気は変わりやすく折り畳み傘が年中手放せず、人々は京都につぐ閉じた心を持ち、魚と水が美味しくて山々も美しい。
私は以前訪れた夏の富山の風景を思いながら、今いる自分の土地のことを考えている。