セッション5

学校に通っているときのように、きちんきちんと区切りのある生活ではない。

毎日毎日が流れるように過ぎていく。気付けば5年、10年、20年と。

カレンダーをめくっても月が切り替わった気がせず、「来年の話をすると鬼が笑う」なんて言う間もなく、笑うはずだったはずの来年が今になる。

連綿と続いていくかのような毎日の中で月一回開催される「読む時間」は、自分にとって程よいインターミッションになっている。

 

当初の課題本は違う本だったのだが、話していくうちに変えることになった。

いま、語りたい気がして。それは少し先ではなく、いまだという気がして。

読む時間

読む時間

 

 

読む人の姿を集めた写真集である。

 

あらゆる暮らしぶりの人々が読むときに見せる、きわめて個人的だが同時に普遍的でもある瞬間をケルテスはとらえようとした。

屋上で、講演で、混雑する街角で、学芸会の舞台の袖で―考えられるあらゆる場で、写真家のイメージはこの孤独な行為の力と喜びを称える。(p.7)

 

 

眺めていくと、人が本を読む姿を見ることはめったになく、珍しいことなのだと感じる。もっとも見ることがないのは、自分が読む姿だろう。 

  

巻頭に収められた谷川俊太郎の「読むこと」という詩、タイトルも含めてなんて的確なのだろう。一語一語が響いてくる。この写真集のために書かれたのか。

 

読む時間は共有できない。

その瞬間は個人的な体験として、本と向き合っているからだ。

まさに、谷川がいうところの「この世からふらふらと抜け出して」いる状態。

 

だが、その状態が、同じとき同じ場所に存在することは可能なのだ。

めいめいが違う世界、宇宙に行っているのに。

なんて不思議。(p.4)

 

読み終わって、自分の世界に戻ってきたとき、誰かと話す。

そうしてはじめて、読む時間は共有されて、完成する。

 

「読書」「読むこと」の中には、人に語ることまでが含まれる、ということは以前にも書いた。

相棒と読み合ってみて、本書の中に生きている人びとが、本を読み終わった後、その内容について誰かに話しただろうかと考えるようになった。

語ることも含む 「読むこと」をしたのだろうか。

 

 

こころの旅 (ハルキ文庫)

こころの旅 (ハルキ文庫)

 

 須賀敦子の文章に惹かれるのは、孤独を湛えているからだ。

池内紀は、このことを「孤独を引き受けた」(『こころの旅』p.219)と表現している。

 

そんな須賀が書いた「父ゆずり」は昨今話題の「親の本棚」のことや、自身の読むことに対する姿勢にもふれていて、「読む時間」と関連していると思う。

読むことに没入する彼女に、母は「また本に読まれてる。本は読むものでしょう」とたしなめる。

「本に読まれる」という言葉には、確かにどこか背徳感がある。

没入しすぎる自分は、自分をなくしてしまっているようで。

須賀はこの短編の最後に、父から手紙が欲しい。父と読むことについて語りたい、と書いている。

おそらく彼女にとって「読むこと」について影響を受けた父と語ることは、彼女の読書という行為を完成させるために必要だったのだと思う。

 

『読む時間』は、かつて、とある人から手渡されたものだ。

他に何を言われるよりも雄弁だったと思う。

読む人を見つめよ。読むことを見つめよ。

ここが私のいたところ。そしてあなたのいるところだ、と。

この人たちの中に私もいるかもしれないが、

確実なのは見る立場でいることのほうが多いということ。

そうして私もこの本を手渡した。

 

近い視点で読むのではないかと思って。