セッション4

7月は互いに忙しかったようだ。セッションもすでに2度延期になったが、なんとかスキップせず開催できた。今回は刊行されると知った時から「この本はきっと読むのだろう」と思っていた本について話すことになっていた。

これからの本屋読本

これからの本屋読本

 

書店での佇まいが独特で、パッと見たときに存在感を放っている本である。積まれていても、表紙を見せて並べられていても、どちらも目を引く。まず、色合いや質感がいい。本のもつ上品なイメージをそのまま表していると思う。2回目の課題本だった『モンテレッジオ~』もそうだったが、深い緑色とかモスグリーンは「本」という感じがする。

この本を買った書店チェーンでは花森安治デザインの栞をつけてくれる。毎回色違いなので楽しみなのだが、今回は帯と同じ色のベージュの渋い色のものだった。偶然かもしれないけれど本に似合っている色。

本を読む時、気になる行に付箋を立てていき、余裕があれば同時にノートにその箇所を書きつけていく。後で見返したいときのためにページ数も見る。本書のページ数を見たとき、何種類もの手描きの数字が組み合わされていて味があるなと感じた。それらの数字の秘密は最後に知ることになったが、なんて心憎い演出でおしゃれなのだろうと感心する。随所にこうした読む人が楽しめるような、著者のしかけ・遊び心が感じられるのだ。

本書は大まかに3パートに分かれている。パート1は、本や本屋の魅力について。まさに我々が日々考えているような「読書」ということも含む。ひとつとんでパート3は、小さな本屋を続けるための実践的具体的な内容。その2つのパートに挟まれてグレーの紙に印刷されている部分が、本を仕入れる方法について書かれた「別冊」。著者は「必要な人だけ読んでほしい」と言っている。

自分は1→3→2の順で読んだ。専門用語の多いパート2「別冊」の部分は結構飛ばし読みしたと思う。

しかし、「別冊」についての感想を話しているうちに、以前参加した出版業界のある勉強会*1のエピソードを思い出して語りが止まらなくなった。後で知ったが、それはなんと2年前の同日のことだった。偶然にしてはできすぎている。

読み返した当時の日記には、そのイベント終了後に神保町の街中で知人に偶然会ったことが書かれている。交差点の手前で立ち話をしたらしい。そして、その人と話すことで次の本を思い出したとも。立ち話の内容は全く覚えていない。

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書|バーナード・マラマッド)

 

その作品とは、バーナード・マラマッドの短編集に所収されている「夏の読書」である。本に関わっていく以上、忘れたくないと思っているとても好きな短編なのだが、今日またリンクして思い出されたことが不思議でもあり、読み返した。実は課題本のテーマともセッションで話した内容とも関連していた。「本を差し出す」仕事をするような人には、今後も紹介していきたい作品だと再確認した。

 

おそらくこの読書会でもずっと考えている根源的な問い、すなわち「本とは」「読書とは」。本書において、著者はその問いに対する答えを言い切っている。

本屋で過ごす時間は、いわば旅に出る前の、準備の時間に似ている。(p.20) 

その本から自分が読み得るものを読書だとするなら、すでに読書は、本屋の店頭ではじまっているのだ。(p.39)

「未読」や「積読」状態の本、つまり読んでいない本について考えたりするだけで、すでに読書と言えるのではないか、というのが最近の自分の考えである。選ぶところから既に読書なのだ。選んだ時点でもう立派に読んだことになっていると思う。

本に囲まれた空間に身を置き、その途方もなさに物理的に圧倒されることのよろこび(p.32)

この「物理的」に量がある空間に「身を置く」ということには大きな意味があると思っている。 自分にとって衝撃が強かった体験としては、本書にも紹介されていた「松丸本舗」だ。なくなってもう何年も経つのに、あの本棚の前に立った感じは忘れられない。

「書かれたもの」がコンテンツであるとするなら、 「読まれたもの」とはコミュニケーションである。(p.75)

 相棒は、「コミュニケーション」という言葉の使い方に慎重でありたいというスタンスだった。世の中でよく使われる言葉は便利で分かりやすいようでいて、使われれば使われるほど色々な意味を含むようになるので、自分が思った意図と違う受け取り方をされることもあると。

「書かれたものは読む人がいて初めて本になる」と言ったのは誰だったか。読む人が現れて読まれたとき、本というものが成立すると思うが、その現象に「コミュニケーション」ではない名前をつけることはなかなか難しい。だが、諦めずにちょうどいい表現を見つけてみたい。 

本を紹介するブログをやっている人も、ボランティアで読み聞かせをしている人も、みなその時間は「本を専門としている」(p.96)

本書を読み進めているとき、個人が運営している読書スペースを訪ねた。今思えば、その時の自分の態度は「かつて専門職だった」ふうを醸していて、とても嫌な感じだった。専門職の自負というのはつくづく厄介だ。以前人に言われたことだが、「他人に不寛容になるときは自分の調子がよくないときだから気を付けて」という言葉を思い出す。冷静になってみると、その不寛容な考えの根っこは分かっているのだが。

本の面白さを誰かに伝える活動に携わりはじめたとき、すでにあなたの「本屋」ははじまっている。(p.292)

少し本に興味があって、本に関する何かをしてみたい、それだけでも本屋だ。そう考えられることはとても気楽でいいな、と思う。

たい焼き屋さん、お菓子屋さん、お蕎麦屋さん・・・・たとえば何か看板にしたいようなことがあったら、そのことで「〇〇屋」と呼ばれるのは楽しい気がする。「〇〇屋」という呼称は、本書で「書店」と「本屋」を区別している(p.53)のと同じように、「人」寄りだと感じられる。

自分に関していうと、以前本の仕事をしていたときは、本書の第6章で取り上げられている誠光社・堀部篤史氏の意見に近い考えを持っていた。

 話を戻すと、恵文社のころより自分の面白いことをやりたいという姿勢が前面に出ているんですけど、内輪の店にはしたくないんですよ。
<中略>

自分が発信するものは内々に向けたメッセージかもしれないけど、パブリックなものもある程度保ちたい。(pp.255-256)

パブリックな空間で本やその世界を誰かに差し出すということ、そのことは、今でもやっていきたいと思っている。

出版業界を変えるには、内側に入り込んではいけないとも思った。(p.298)

当初「やや外側から」出版業界に関わっていたという著者の思いを知り、つい今の自分の状況に当てはめてしまう。

最近ある人が自分にかけてくれた言葉についても考える。

「どういう形であれ その世界とかかわるのが あなたにとっても その世界にとっても いいことに思う」

「本が人生や世界をよくしてくれる」と信じる立場でいること。

人生に「本を差し出すこと」を取り入れることで、世界を変えていけるんじゃないかという夢や期待をまだ持っていること。

  

それらが「いいこと」だと嬉しい。