セッション12
いいなあと思う憧れの出版社がいくつかある。みすず書房はそのひとつ。
「好き」とか「お気に入り」じゃなくて、「憧れ」なのは、価格帯もあるのだと思うけれど、生み出される本一点一点の佇まいが美しいからだ。言及するときもちょっと通ぶって「みすず」と呼んでは、実はどきどきしていたりする。
今回の課題本は出版前から本の界隈の人たちの間で話題になっていたが、実際に初めて書店で見たときに強烈に「欲しい」と思ってしまった。ただ、さすがの「みすず価格」だったので(¥4,600+税)、手に入れるまで熟慮を要した。
カバー絵は、ジャクソン・ポロック。
本書の装丁は、絵とタイトルのロゴや配置、「みすず書房」の出版社表記までもがセットとなったデザインだと感じた。表紙も、背表紙も。全体的に自分好みである。
セッションのとき、「カバーがつるつるしてて、”いつもの”みすずの紙質と違う気がする、本とずれていくので読みにくかった」と指摘があった。言われてみればカバーが外れやすかったかもしれない。相棒はいつも本の造りとか、物質的な部分にも細かく気付いて言及する。自分が気付かないところまで。
タイトルの副題「言語の忘却について」は特に興味ひかれるテーマだ。冒頭、幼児の喃語について著者はロマン・ヤコブソンの次の言葉を引く。
「観察者たちにとっても驚くことに、幼児が前言語段階から最初の単語を獲得するにいたる際、つまり本来の意味での言語的な第一段階で、様々な音を発する能力をほとんど失ってしまう」ことが確認されている。(p.10)
このことを受けて、著者は次のように疑問を投げかけている。
子供が、ひとつの言語の持つ現実に吸収されきってしまい、その言語以外のあらゆる言語の可能性、無限の、しかし結局は不毛である可能性を、これを限りと捨て去ってしまうことがあり得るのだろうか。(pp.11-12)
この部分を読んで、ある児童文学を思い出した。
子供のころ、特に好きなシリーズだったのだが、なかでも折に触れ思い出すエピソードがある。それは「ジョンとバーバラの物語」である。
バンクス家の4人の子どもたち、ジェイン、マイケル、双子のジョンとバーバラのお世話をするnannyのメアリー・ポピンズは、不思議な力を持っている女性。こうもり傘で空を飛び、ドラえもんの四次元ポケットのような「絨毯バッグ」を持っている。nannyについては日本に類似する職業がなかったのでなんともいえないが、乳母は別に登場するし、勉強を教えるわけでもなさそうなので「子どもたちと一緒にいてお世話する人」というくらいなのだろうか。
さて、「ジョンとバーバラの物語」のなかでは双子のジョンとバーバラは赤ん坊で、メアリーの古なじみらしい鳥(コマドリ)と、おしゃべりをしたりクッキーをあげたりして遊んでいる。コマドリは、二人もいつか、今は聞こえている風の話す声や、コマドリの言葉も解さなくなる、忘れてしまうのだと意地悪く二人をからかい、二人は「そんなのは信じない」と怒り悲しむ。しかし、やがてまた別のある時コマドリが訪れると、ジョンとバーバラは、もうコマドリと話す言葉を忘れてしまっていたのだった。
同じ出来事は、続編においても発生する。ジョンとバーバラの下に、さらにアナベルという妹が生まれ、やはりコマドリと仲良くなる。コマドリは、また同じことが起きるはずと思いながら、「もしかしてこの子だけはメアリーのように自分たちの話す言葉を忘れないかもしれない」と期待する。(そうなってほしくない、という思いの裏返しで、コマドリは必ず子どもたちに意地悪を言うのだが)。
私たちが日常的に話す言葉を話せるようになる前の子供たちは、私たちの理解できない不思議な言葉を話す。その様子を見ていると、風や鳥といった、自然界との会話もできているに違いないと信じられる。
メアリー・ポピンズの物語と、私たちの日常は地続きな部分もあり、さらにそこに「エコラリアス」の論考はリンクしているように思えるのだ。
人間の成長過程における言語の忘却の話とは別に、歴史的に見て消滅していく言語もある。本書ではその現象を「言語の死」と呼んでいる。
著者は「ある言語が本当に消滅したと、どうしたら確信できるのか、という解決できない恐れがある問題」について、さまざまな学者の説を引用し検証しようとしており、大変興味深い。ある言語の最後の話者をめぐり「言語の終焉」について語るジョゼフ・ヴァンドリエスの言葉には特に考えさせられた。
それにしても、コーンウォール語は彼女の死の瞬間に本当に死んだことになるのだろうか。老いたドリーはこの言葉を話すただ一人の人間だった。しかし、言葉を話すには少なくとも二人の人間が必要だ。コーンウォール語は、彼女に返答できる最後の人間がいなくなった日に消え去ったのだ。(p.76)
「話す」ことには相手が必要であるという、当たり前の事実についての不思議さを思う。本ブログにおける読書のセッションも、一人の感想戦ではなく、同じ本を読んだ誰かと対話することによって成り立っている。その対話から感じたことを書き記すことによって、それをさらに相手に伝える。読んでまた、対話していた時とは別のことを思うこともある。言葉は自分ではない誰かほかの人を通すとまた別の変化を遂げる。自分の思いも他の人の言葉にあてはめて変わっていく。変わっていくようではあるが、変わる前の思いもそこには含まれている。
言葉・言語は伝達のツールにすぎず、絶え間なく変化していき、時に「死」を迎えるように考えられているが、実は現在のわれわれに見えていないだけで、ひそかに記憶を内蔵し、とどめているのではないか。
ある言語が別の言語に変化する時には、常にその残余があるが、誰もそれが何かを思い出すことはできない。言語の中には話し手よりも多くの記憶が残っていて、それは生き物より古い歴史の厚みの痕跡を示す地層に似ている。それは必然的に、言語が通ってきた幾つもの時代の跡を残している。ラルフ・ワルド・エマソンが書いているように、「言語は歴史のアーカイヴ」であるのなら、言語はその仕事を学芸員もカタログもなしに行っていることになる。(p.91)
情報には表層と深層があり、いま見えている部分だけではなく、奥底にまた別の有用なものがあるかもしれない。そうであるはずだ、と考えることは日々自分に課していることでもある。
しかし、「学芸員もカタログもなしに」アーカイブする歴史は、想像するだけでも混迷の極みだ。そのことは著者も認めている。
わたしたちが思っているよりも、ある言語はそれ以前に存在した幾つもの言語を留めていて、その響きが、弱まったとはいえ、現在の言語の中にも続いていると考えられなくはない。言語の地質学者たちは、精密な研究により、その地に元からあったり、または他の土地から来たりした言語を構成し分解する、複数の層を同定していると自負している。しかし、失われた時の探求は、記憶においてそうであるように言語においても困難であり、ある言語が通り抜けた複数の時代は、歴史家や考古学者の手に容易に負えるものではない。(p.101)
「言語の地質学」という言い方はすてきだ。言語というとらえどころのない目に見えないものが、地層に例えられることで一気にビジュアルとして浮かび上がるし、研究者自身がこつこつと石を掘り痕跡を探すような姿まで想像してしまう。
さらに著者は、言語そのものを「複数で密接な関係を持つ厚みの異なった層の移動=絶え間ない地滑り」として定義しようとしている。
このように、言語が消滅するというよりも、地滑りによって層の変化が起こり、表層に見えないようになる、という考え方の方が自分にはしっくりくる。地層のように考えていくと、忘れられてはいるが、ひっそりと今につながる土台となっていると考えることもできる。
一般的な忘却ということと、本書のテーマの「言語の忘却」は別のことだと分かっている。それでも、「忘却すること」そのこと自体を考えずにはいられない。
それほど大切と思われることでなくても「忘却すること」に後ろめたさを感じてしまうのはなぜなのだろう。
全てのことを記憶にとどめておくことは困難だ。後世に残るよう、記録にすることもなかなか難しい。しかし、人は忘れてしまう。
でも、このようにも考えられる。忘れているだけなのだ。消えはしない。
本書を読んで、分かったこともあるし、ますます分からなくなったこともあるし、新たに疑問に感じてしまったこともある。
それでも楽しかった。
分からないことによって、照らされる自分を見つめるのは、愉快である。
セッション11
2019年は大著の積読解消ということになるみたいだ。
440ページ。おそらく今までで一番長かった。
この本は1月からの宿題だったのに、結局2/3までしか読み終えないままセッションに臨んだ。(相棒は読み終えていた。さすがである)
災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)
- 作者: レベッカ・ソルニット,高月園子
- 出版社/メーカー: 亜紀書房
- 発売日: 2010/12/17
- メディア: 単行本
- 購入: 9人 クリック: 195回
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さて、この本は2018年の神保町ブックストリートで出版社のワゴンセールで買ったものだ。ずっと読みたいと思っていたので、喜び勇んで買ったのだが、なぜセールになっていたのかといえば、ちょうど同じころに6刷が出来となっていたから。なるほど。
刊行してだいぶ時間が経過しているけれども、最近訪れたいくつかの書店では目立つところに一冊は置いてあった(探しているわけではないのに目に入るので、目立つところという認識)。持っている未読本を書店で見かけると嬉しくなるのはなぜなのだろう。
原題が "A PARADISE BUILT IN HELL:The Extraordinary Communities That Arise in Disaster" 。これを「災害ユートピア:なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」とした邦訳したのは秀逸だ。読み終えてあらためて思う。
かつての自分が「災害」を思うとき、それは関東大震災や、阪神淡路大震災、東日本大震災などの大地震およびそれに付随して起こるものであった。
しかし今では、近年の九州や広島での水害、台風による停電被害なども経験し、ありとあらゆる自然災害がいつどこに起こってもおかしくないのだと思っている。
きっと、2010年に初めてこの本が出たときに読んでいたとしたら、今この時より全く違った読み方をしていた。フィクションを読むように読んでしまっていただろうと思う。
それというのも、ソルニットの書く文章は取り扱う内容のわりに読みやすいのだ。物事に対峙してそれを「伝える」ことへの姿勢が原文にも表れているのだろうと想像する。
とはいえ、440ページである。
セッションの後も読み続けていたが、最後の1/3パートが自分には結構重たくてスピードダウンしてしまった。読み終えて、こうして書くことができてよかった。
あなたは誰ですか?わたしは誰でしょう? (p.9)
この問いかけは、プロローグだけでなくエピローグにも登場する。
危機的な状況において、この点を確認することが生死を分ける場合もあるという。しかし、人が社会で生きていく以上、常に問いかけ続けている問題でもある。
災害においては、「人間の本質」が問われるのだ。
「人間の本質」という言葉は今では流行遅れになっている。この言葉に暗示されるのは、固定した性質、すなわち普遍的で安定した自己である。だが、もし世の中には文化や環境により形成された多くの"人間の本質"があり、一人一人の中にはそれが複数存在すると認めるなら、災害時に現れる"人間の本質"の大部分は、いつもの、または正常な我々の姿ではなく、単にそのような状況下での我々の姿を示している。<中略>
災害への反応は、部分的にはその人が誰であるかに左右される―たとえば、ジャーナリストには一般の人とは異なる義務があるーが、誰になるかもまた、その人が何を信じているかで大きく違ってくる。(pp.78-79)
人間の本質、それは普遍的なことではなくて、一人の中に複数内在しており、状況によって表出されるものが変わる、というのは理解できる。
であるからこそ、「あなたは誰で、そしてわたしは誰か」という問いが出てくるのだと思う。見えてくる"本質"は、時には思いもかけないような、受け容れがたいものであるかもしれない。災害時には特にさまざまな“本質”が表れてくる。
本書で、著者はいくつかの災害の事例を取材し、また、それらをつなぐ先人たちの哲学や思想を紹介し、「災害ユートピア」について考察している。
人々は災害に遭った後、または目撃した後に、強いショックを受けると同時に「何か自分にできることをしなくては」という気持ちになる。相互扶助、利他主義。そうした意識が働く。そうした時によく言われるのは、災害時だけでなく「いつもすればいいのに」。
その疑問に対するソルニットの答えはこうである。
1989年の大地震に続く数週間には、愛と友情がとても大切で、長年の心配事や長期的プランは完全に意味を失っていた。人生は今現在のその場に据えられ、本質的に重要でない多くの事柄はすべてそぎ落とされた。(p.16)
災害時には、人々は長期的ビジョンに立たないからだ (p.48)。
そう、その時は「今ここ」なのだ。
ソルニットはまた、災害発生後の「エリートパニック」について、災害学の学者の間で使用されている権力者たちが恐怖にかられて行う過剰反応のこととし、具体的な例を挙げて説明している。
災害により立場や生活がひっくり返されてしまい、不安な中で貧困層や白人以外の住民が混乱に乗じて犯罪を繰り返しているという「妄想」噂を信じてしまい、拡散していく。
8年前の東日本大震災の後、得られる情報が少ない中で、誰もが「情報拡散」を行っていた。デマや間違った情報もたくさんあったと思うが、「必要な人に届けばいい」という祈りのようなものがあったように思う。
日本ですら、被災地での強奪や詐欺などの犯罪の話(噂話と思うが)はあり、あっという間に広まっていった。あれも、パニックだったに違いない。
セッションのときにも、本の内容とは別に、どうしても自分たちが「8年前」体験したことについての話になった。
その時に話したのは、自分は「以前」「以後」という分け方で時代を区切って考えるようになったということだった。
メキシコシティで組合を立ち上げたお針子のひとりが、息子に言われた言葉は、その当時の自分のことを言われているように思った。
『ママ、地面が揺れてから、ママの中は揺れ続けているんだね』(p.192)
また、この本でのニューオリンズの例が9.11のマンハッタンとは違う傷を負ったことについて、「土地の人が変わらない生活を送ってきたこと」が挙げられていた。
毎日が変わらなく続くと信じていたときの災害。そのことの打撃は、実際の被害以上に人々を傷つけたのではないか。
私の場合は、その日を境に生活が物理的に一変したわけではない。しかし、発災前の自分に戻ることはもう二度とできないし、どういう風に感じていたかとか、考えていたかということも確認できない、以前の自分とは変わってしまったと、強く思ったのを覚えている。
もう一つ、この本を読んで感じたのは、「本だからまだ内容を受けとめられる」ということだった。
書かれている内容によっては、凄惨な災害の描写もあって、これが映像だったら自分にはとても目を向けることはできなかった。
写真や映像は、実物以上の力で迫ってくることがある。否応なしに目の中に飛び込んでくるものは、時に冷静な視点や思考力を奪う。文字だから、読めた。そのことについて、語ることもできた。
そう考えてみて、もしかしたら、8年が経った今でも、体験者であるほとんどの人びとが、東日本大震災について、充分に互いに語り合えていないのではないかという気もした。
メディアが仕立てた振り返りの映像。取材の上で選ばれたインタビュー上の語り。
次世代に継承するための記録としての体験談。
でも、そうした誰かのフィルターを通した体験ではなくて、もっと互いに直接話してみることが必要だと思う。
何年経っても、語り合うこと。対個人として、耳を傾けること。
あの時はここにいた。
その後、誰とどうした。
数週間はどうだった。
やがてこうなっていった。
そんなことどもを。
それは今後の教訓としてというよりは、誰もが社会の中で生きていく中で、発し続ける疑問の答えのひとつにつながると思うから。
あなたは誰ですか?私は誰でしょう?
そして、ここで語り合っている私たちの生きる世界を、どうしていけるでしょう?
「のんき」と輪郭
少し前のことだが、数年越しの念願がかなって、東京にある書店Tに行った。
こじんまりとしていながらカフェとギャラリーが併設されていて、それでいて本棚は自分の思う「完ぺきな」状態だった。
そこには宇宙があった。
どの本も読まれたがっているように思え、自分が読みたかった本だという思いが生まれるような。興味あることも知らないことも混ぜこぜで、しかしちゃんと目に入ってくる。
この書店が素晴らしいのは、インターネットや知人や新聞など、色々なところから知って「読みたい」と思っていた本の実物が、ひとつ残らず「あった」ことだ。
実物を見て結果買わなかったものもあったが、代わりにその近くにあった本が気になったり、平積みに目を走らせている最中に「あ、これ買おうと思ってたんだった」という本が目に入る。手に取って見ることのできる重要性を感じる。
「本と出会う」場としての書店が話題になっているけれども、本当に出会うべき本が目に飛び込んでくるには、見る側にもある程度「慣れ」が必要だ。しかし今回訪れた書店はそうした訓練は必要がない気がした。主張があるわけではない。ただ、訪れた人が求める宇宙がちゃんとある。別格だと感じる。
そんな「完ぺきな書店」で買った数冊の中に、いま自分が出会うべき本があった。
いわゆる新刊ではなく、何度も他の書店で見かけて知っていた本である。ただ、この日は背表紙が「光って」見えた(棚に差さっていた)。
2018年秋、本書に所収されているエピソードを元にした絵本が刊行された。その際に、元の文章がウェブで無料公開されたので読んでいたが、とても面白かった。背表紙が光った瞬間、そうしたことも思い出された。
こんな子きらいかな? (3) やましたくんはしゃべらない (こんな子きらいかな? 3)
- 作者: 山下賢二,中田いくみ
- 出版社/メーカー: 岩崎書店
- 発売日: 2018/11/10
- メディア: 単行本
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人前で話さないというのは、自分も近い経験をしているのでよく理解できる。幼稚園で「劇の主役をやりたい人?」とせんせいに言われたとき、一人だけ絶対に手を挙げないような子どもだった。しかしそのせいで、なぜか主役になってしまったということがある(人生最初に感じた理不尽)。
『ガケ書房の頃』は、そんな「普通の子どもと違う生き方をしてきた」著者の自伝である。大学受験に失敗して家出、さまざまな職業を経験した紆余曲折ののち、「自分が一生やる仕事」として始めた新刊書店が「ガケ書房」だ。
回り道をしながら自分の本当にやりたいことを探していく著者の姿に、この先どこに行きつくのか分からないと感じている自分を重ね合わせていた。本に関する色々な想いに共感しつつ、主人公である著者とともにこの本の中に流れる時を過ごした。それは、日常から浮遊できる、とても幸せな時間だった。
ガケ書房でよく売れる本の傾向は、生き方を照らしてくれるような本だ。
<中略>
僕はその出会いを提供するために、入口をたくさん作る。普段のなにげない日常生活の寄り道となる入口。それは、僕が子どものころにこま書房で夢中になった、違う世界への扉だ。(p.155)
書店や図書館は、世界の入口だということは、よく言われるし、自分もそう実感しているひとりである。未知の世界が本としてそこに存在し、文字通りその「扉」を開くも開かないも自由だ。
店はお客さんを選ぶことはできないが、お客さんは店を選ぶ。比べたりもする。ブランド戦略で結果的にお客さんを<セレクト>している店もあるが、僕は欲張りなのであらゆる人に来てもらい、楽しんでもらいたい。万人に受ける品揃えの店という意味ではない。いってみれば、店内に入ったら童心とまでいかなくとも、地位や立場や見栄を一時的にでも忘れて、気持ちを解放できるような店。
<中略>
かっこよく言えば、確認と発見と解放を棚に並べておきたい。(p.156)
「確認と発見と解放を棚に並べる」とは、なんと的確な言葉だろうか。自分が感じていたことを、こんなにぴったりとした言葉にできるのかと驚いたし、嬉しかった。書店での購買行為を「確認の買い物」と「発見の買い物」と区分けしていることも面白い。
いいものに触れるといいものを作りたくなる。いい文章、いい映画、いい音楽、いい絵、いい漫画、いい人、いい店。自分にできるとかできないとか関係なく、いいものを作りたいという輪郭が生まれる。(p.160)
「文化」というものの及ぼす作用を端的に表したいい言葉だなと思う。いいものに触れてできた「輪郭」が、ぼやっとできてきたとき、その輪郭について取り急ぎ誰かに語ることは大切だと思う。本や映画の、批評じゃなく感じたことを。音楽を聴いて思ったことを。いい人に会った感動を、誰かに伝えること。そうすることで「輪郭」は、どんどん濃くなる気がする。
本屋で買った本は、全部お土産だ。(p.237)
世界への扉を自分のものとして持ち帰ることができるとは、本とは不思議なものである。時には「なぜこれを買ったのかな」と思うこともあるが、「お土産」だと思えば納得もできる。そのときに感じた何かや、空気を持ち帰りたいと思ったのだろうから。
ガケ書房でのライブイベントのエピソードの中で、小沢健二氏の登場する部分は特に印象的である。
頑なに目の前の日常を死守することだけに懸命な僕の姿勢や発言を、小沢さんは、世界的に見たらそれはのんきな姿勢に映るけれども、そののんきさが実はいいんじゃないか、山を登ったり川を眺めたり散歩したり、それぞれの日常を全うすることが大事なんじゃないかなと話した。(p.228)
「オザケン」は自分にとって特別なアーティストの一人であるが、そうしたことをさておいても、著者の「苦しかった時期」に救いとなったに違いないと信じられる。彼が発したという「のんき」というキーワードは、些細な日常のことでさえ右往左往してうまくいかない自分に対しても「それもいい」と許してくれる気がして、救われた。
読書という誤解され続ける行為のハードルを下げるプレゼンテーション(p.282)
このことについては、自分もずっと考えている。
本が世界への扉であり、その本がある場所は宇宙である、そうしたことを、体感できる者が、どうにかして伝えないといけないことなのではないかと。
本文を読み終えてぱらぱらと本書をめくり、織り込まれているカラー写真を眺める。これらの写真があまりにも「あの頃」感を醸しだしている。最初は「本当にもう存在しないんだな」と残念な気持ちで見ていたが、やがて行ったことがないのに「懐かしい」という気持ちへと変化していった。いい写真だと思う。
この本を読んで、自分のなかにも「何かいいものを作りたい」という輪郭が生まれたのは確かだ。その中身は、まだぼやっとしたり、はっきりして見えたり、不安定なようだが、いつか何かいいものを作りたい。
そして、それは苦しさを覚えるほど頑張った上でのことではなく、「のんき」に見える日常を送っているうちに「いつの間にか」見えてくるものだといい。
そんな風に思っている。
セッション10
2019年のセッションは、課題本なしのスタート。
正確にいうと、課題図書は決まっていたのだけれど、互いに年明け早々いろいろと立て込んでしまい、読む時間が取れなかったので翌月に持ち越したのである。
それで、課題本以外で気になったトピックを披露しあうことにした。自分は雑誌をいくつか読んで、印象的だった記事について考えを述べたがそれについてはおいておく。
本を読む時間が取れないとき、雑誌を斜め読みすることで、新たな発見をもとめ、活字欲を満たしていたようなところはある。
病院の診療室や、友人の部屋で手持無沙汰な時など、置いてある雑誌を何気なく手に取ることは誰にでもあるだろう。本よりも気軽な暇つぶし。さりげない存在。
インターネットの情報は常に入ってくるが、自分の中に取り込んで咀嚼するようなものというと、それほどない。「きっと誰かに必要」という判断でSNSで外に向けてシェアしていく、という面のほうが自分の場合は多い。
「危険な読書」は年始にBRUTUSが組む特集で、2017年から数えて3回目である。前の2回もきっと読んではいたのだろうけど仕事の延長のような感じだったに違いない。あまり覚えていない。今回は目当ての記事が2つほどあったので、楽しみにして買った。
目当ての記事は、以前セッションで取り上げた『文字の食卓』著者の正木香子氏と書体デザイナー鈴木功氏の「書体敏感肌」とう書体についての対談、それに「2018年の本」として選んでいた『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』の著者・花田菜々子氏と編集者高石智一氏の対談の2つ。
どちらも、読んだ本のその後日譚という感じで「そうそう」と楽しく読んだ。
そこで終わらないのが雑誌の面白いところで、ぱらっとめくると色鮮やかなページや、人びとの写真や、小さな書影が目に入ってくる。
特集とは全然関係のないコラムの連載や宣伝ページまで、本という特集内容に合わせている(ような感じである)。
商品情報やおすすめ映画の情報ページは、おそらく本を読まない人が「おすすめ本」のコーナーを読むような感じで、「こうした世界もあるのか」という発見があって面白い。
インターネットでの情報収集が手軽になる以前、かつては、雑誌というメディアがもっと身近で、「情報通」と言われるには目を通していなくてはならないものだったと思う。
グルメに詳しい同級生は欠かさず週刊の情報誌をチェックしていたし、映画好きな友人は雑誌で現在上映している映画やかかっている映画館を確認していたものだ。
雑誌の魅力は、そうした情報の欠片がたくさんつまっていて、「自分が得たい情報」以外にも、自然と目に飛び込んでくる所だと思う。
ふと出会った情報は、後々大きな影響力をもつことも少なくない。
しかし、雑誌の多くはターゲット層が絞られている。その人たちに向け、たくさんの雑多に見える欠片を組み合わせ、彼らが「心地よい」と感じるような色にさりげなく合わせていくのではと想像する。
雑誌につかわれている「雑」の字を見ると、思い出してしまうのが、和歌である。
和歌集の部立てに「雑の部」「雑部」と呼ぶ歌群がある。
学生時代は大量な「雑部」の和歌を目で追いながら、「その他もろもろ」の歌なんだと思っていた。
いまこうして年月を重ねてみると、萬葉集の時代から人々が「雑なこと」にこそ、生きる上で欠かせない「当たり前」な部分をこめていたのではないかと感じる。
もちろん雑誌は和歌集とは異なるけれども、その「生きている」時代を、ときには少し先の未来を、人々の意識に映そうとしてきたことは間違いない。
やがて、このままでは情報メディアとしての雑誌はインターネットにのみこまれるだろう。
そうすると「雑なこと」という意識もなくなってしまうのではないだろうか。
雑多なおしゃべりは楽しい。
雑貨を集めるのも楽しい。
性格は雑である。
雑なことが好きなようだ。
この文章も雑に終わることにする。
初買い・初読み
2019年は買った本をなんらかの形で記録しておこうと思う。
年末に買いそびれた本をいつもの書店で買おうと思い、在庫ありとなっているフロアに行ったら「石」に関する本のフェアが展開されていた。
とくべつ石が好きというのではないが、その中に、最近よくレビューなどで目にしていた絵本が並んでいたので立ち止まる。
少しめくって読んでみて、これは今日読まないといけない、と感じたので、目当ての本と、雑誌1冊とともに購入。
すべてのひとに
石がひとつ
ひつよう。
どんな石でも
いいのでは
ない。
わたしが言っているのは
特別な石。
あなたが
自分で見つけて
いつまでも
永遠に
大切にできるような
石。
そうして、「特別な石」を見つけられるようにと、
「10のルール」が続く。
あくまで、本当に「石」を見つけるためのルールなのだが、それらは何か、人生における「大切なもの」を見つけるための心構えを指しているように思えてならない。
訳者の北山耕平のあとがき「なぜ、すべての人に 石が必要なのか?」にも、ぐっとくる。
石はそれぞれが記憶装置ですし、生きている小さな地球です。
自分の石をさがそう。
かんぺきな色の。私の特別な形の。
年の初めにぴったりの、いい本に出合えてよかったと思う。
18→19
2018年はここ数年の中でも、特にたくさん音楽を聴いて、色々な本を読んだ。
環境の変化で「人に会う」ことが減ったというのもある。
それでも、それほど寂しい気持ちにならなかった。
どの作品も日々を送ることを支えてくれたが、なかでも印象的だったものを挙げてみる。
出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと
- 作者: 花田菜々子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2018/04/17
- メディア: 単行本
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「本には人がつきものだ」ということの思いを強くした1冊。
没頭して一気に読み切って、その分エネルギーを消耗して読後は脱力する、という読書体験は久しぶりだった。
この本の元となったWEBでの連載もずっと読んでいたが、1冊の本にまとまって読んだ時に全く別物に思えた。そのことにまた、本というものの力を感じたものだ。
本を売りたいと思っている人が書いた本が売れる、という現象も凄いと思う。
「2018年の1冊」を選ぶとしたら迷わずこれだといえる。
夏頃から、主に夜のリラックスタイムにずっと聴いていた。
かつてない心地よさ。あまり季節も選ばないで聴くことができる。
季節感のある曲も好きなのだけど、いつでもぴったり心地よい、そんな存在があると安心だ。自分にとってライナスの毛布みたいな感じ。
いつでも あるようで すべては 変わりゆく
「わすれてしまうまえに」より
詩や短歌や俳句はSNSと相性がいいかもしれない。 不意打ちに出会って、世の中を見る目を変えるのにインパクトがあるから。
脳みそがあってよかった電源がなくなっても好きな曲を鳴らせる
どの歌もどことなく諦めというか、基本的にかなしみを湛えてる気がするのだが、そこに1筋の光を感じる。
日々を送るのにはこれくらいのほの暗い光の方がいいというような。
コミックから。
これもtwitterで知った。
2018年のコミックと言ったらこれだけ読めばいいみたいな書き込みを見て、興味を持って読んでみた。
コミックを書店で入手することも今となってはなかなか難しい。発売から半年も経っていたら余程の人気作でない限り店頭にない。ところが、旅先で寄った地方の書店チェーンの店舗は1フロア全部がコミックで、この本も当然のようにあって、凄いと思った。この本を見るときっと、あの行きずりの書店を思い出すだろう。
作品の内容は、なんということもない青春の一コマのようだが、読み終わった後に突然ふと思い出されてくるという不思議な余韻のある作品だった。
白か黒じゃないよ。この世は♪ きれいな♪ ねずみ色〜♪
やりたいことが分からなくても、それでいいんじゃない、と堂々と言ってくれる登場人物はなかなかいない。そこに救われる。青春を過ぎ去った自分でさえそう思うのだから、真っただ中にいる彼ら彼女らはどれほどだろう。多くの迷える人に届いてほしいと思う。
こうして並べてみると、どれにも共通するものがあるなと思う。
永遠にとか、変わらないとか、そんな言葉にはもう励まされない。
忘れたりなくしたりしてもいいのだ。
流れていき消えていくものなのだ。
ものごとは変わっていってしまう。
そのことを受け入れ、肯定しているものに惹かれるようになった。
ものでも人でも「あの頃出会いたかった」と思うことがある。
きっと人生は違う方向へ向いただろう。
それは時が経った今だから分かるわけで、そのときは分からない。
遅かれ早かれ結局出会えたとしたら、それでいいのかもしれない。
いまは出会ってからの時間を 大切にしていきたいと思う。
このブログでのセッションは9回。
読み合う相手がいなかったら、1冊1冊をこんなに読み込めなかった。
ありがたい。こうして感謝の気持ちで1年をとじたことが嬉しい。
新しい1年がひらかれた。
本という扉をひらいた先に、また色々な世界を一緒に見ていけたらいいなと思います。
セッション9
「平成最後の」という枕詞が何度も何度も使われた2018年。
今年の締めくくりセッションは90年代について。
京都の書店・誠光社の店長、堀部篤史氏の書いたエッセイである。
書店で探し当てたときに拍子抜けするほど簡単な感じの、薄い本だった。見ようによったら、「ちょっと値段のいい」ノートくらい。日記帳みたい。
しかし、薄いのは見かけだけで、内容はとても濃かった。
相棒が、本の帯の言葉に言及する。
表紙側には「スマートフォンのない時代へ」。
帯の背には「思い出と考察」。これは見落としていた。
実は、セッションの日の少し前に旅に出たのだが、その旅先でスマートフォンが故障した。行先と予定が決まっていた旅だったし、その少し前に通信会社の電波障害などがあったこともあって、自分は事前に行先の地図等を紙にプリントアウトしておいた。
そうした準備によって旅の最中は特に困らなかったのだが、困ったのは旅から帰ってきてからである。仕事が忙しいうえ、携帯電話会社の店舗の受付終了時間は早い。結局2日間ほど通信手段は自宅のWi-Fiのみ、という状況だったが、日常の中でスマートフォンがないという状態がとても不安だった。
もう「なかった」あのころには戻れないとつくづく思った。
いまあるものを捨てて過去にさかのぼりパラレルワールドに住むことはできないが、せめてゾンビ映画の序盤のような街でも飄々と生きていきたい。いらないものが増え続けるのならば、せめて本当に必要なものを取捨選択できるくらいは覚めていたい。そのためにはかつてわれわれには何がなく、代わりに何があったのかを思い出す必要がある。(p.16)
「考察」のための「思い出」。
なるほど、それであるから「濃く」感じたのだろう。著者と自分の思い出を行き来しながら、自分も考えていく。その作業の中で感じたことは、90年代は徹底的に「消費」してきた著者が、2020年を迎えようとするいま、「消費される」ことを嫌悪しているように思えるということだ。そのことに自分も共感している。
実を言うと「今度は堀部さんの新刊にしましょう」と提案があったときに、ちょっと怯んだ。著者の堀部氏も、版元である夏葉社の島田潤一郎氏も、相棒も、自分と同世代。そんな彼らが書いたことを読むと、自分の「痛い」ことまで思い出しそう、と考えてしまう。
岩波書店のPR誌『図書』に、「九〇年代の若者たち」というタイトルで島田氏がコラムを載せたことがある。掲載当時に読み、大きな喪失感を味わった。
島田氏の私小説的なエッセイだけれど、もう一つの側面として、その時代の文化と結びつく90年代の音楽というテーマもある。今回の課題本と関連がある気がしている。
ぼくが青春時代を送った九〇年代は、それよりも、音楽の時代だった。もっといえば、CDの時代だった。
(『図書』2016年10月号、岩波書店、2016年、p.11)
本文の中で、島田氏は 「このころによく聴いた」として、以下のアルバムを挙げている。
- 『LIFE』小沢健二(1994)
- 『ハチミツ』スピッツ(1995)
- 『東京』サニーデイ・サービス(1996)
- 『空中キャンプ』フィッシュマンズ(1996)
- アーティスト: 小沢健二,スチャダラパー,服部隆之
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
- 発売日: 1994/08/31
- メディア: CD
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※1990年代以降に再販されたものもあります。
そう、多くの「90年代の若者たち」は、これらのアルバムを聴いていた。
その頃はよく、CDの貸し借りをした。誰かの手で渡されて知ったものも多い。
普段は忘れているけれど、懐かしさというよりはその時に立ち戻るような気持ちになる曲たち。表向き、日常の中で見えなくなっているだけで、「あのころ」は簡単に「いまここ」になる、そのためのスイッチのような。
課題本に戻る。
同世代間に共通の姿勢や考え方があるとすれば、それは原体験となった音楽とは切り離せない。
《中略》
すでに出尽くしたヴァリエーションの新しさよりも、過去のアーカイヴ発掘が新鮮だった一九九〇年代に青春を過ごした僕にとって、決定的な影響力を持ったのはほかでもないヒップホップだった。過去の情報を引用し、並べ替え、別の意味を持たせる「編集」こそがクリエイティブな行為であるという発想の転換。それは音楽だけでなく他の分野にも応用できる「発明」だった。(p.99)
この後に続く「編集」論には、大きく頷いてしまう。
思い出すこと、考察すること。それにより未来をつくること。
少し年上の世代のアーティストたちは、「僕の見たビートルズはTVの中」(斉藤和義)とか、「僕があなたを知ったときはこの世にあなたはいませんでした」(「拝啓、ジョン・レノン」真心ブラザーズ)と憂う。
彼ら のように「間に合わなかった」世代とは、違う。
さらにそれ以前の、堂々たる「間に合った」世代とも、もちろん違う。
フラットで薄い。と見せかけてディープで濃い。
飄々と、パラレルワールドのような世界で生きている。
古いも新しいもなく、「いいものはいい」として引用と編集でつないでいく。
この先の未来をどのように編んでいこう。
どんな編み方があるだろうか。