通りすぎる街
7月はじめ。いまの居場所での1年が過ぎた。
実際の距離を大きく移動したのはさらに何か月か前だったのだが、ぴたっと定位置につけたのは7月だったから。本当にあっという間だった気がする。
ふと「こつん」と当たった小石に動かされたくらいのつもりでいて、思ったよりも大きく転がって、何もかも変わってしまったのだなと1年経ってようやく実感がわいている、そんな状態。
ちょうど1年前、異国から町にやってきた人がこの7月で去る。仕事上ずっと関わってきたこともあり、文字通りの異邦人として奮闘していた姿に励まされたり、やきもきしたり、自分に重ねていた部分もある。もともと期限付きであったとはいえ、予定より早く帰ってしまうと聞いて、淋しい気持ちになった。
「なんだか最初から1年で帰るつもりだったらしいよ」
その言葉を耳にしたとき、発言の中に残念に思う気持ちと「どうせ帰っていく人」というニュアンスを感じ取ってしまい、複雑な気持ちになった。
自分もそう思われているのだろうか。
ずっとそこにいると思うかを問われたことがある。
本当に分からない。ここは「通りすぎる街」なのか。
このまちでたくさん浮かんだ思いを言葉にしたい。目に見えるように、行動に移して、このまちの人たち、特に「新しい時代の人たち」に何かいいものを残したい。
そう思うのだけれど、新しい時代が来ようとしているのに、考えがクリアにならないし、行動もなかなか伴っていかない。
こんな自分は、どうにも不甲斐ない。
すすめられるままに読む
とある場所での自己表現を止めた。
発信を止めてみたら、久しぶりの友人知人から別経由でメッセージやら電話が続いた。某所での発信も見ていたはずの人たちなのだが、「何?どうした?」でもなく、「どうしてるかと思って」と、やりとりしてくれるのがよい。
そのうちの一人は読書家で、20代の頃からよく私に本を勧めてくれる人だった。
日常の延長として本を勧めてくれる友人は少なく、相棒に出会うまではふたりしかいなかった。思えば、ふたりとも人生のそれぞれの局面で私の考え方を支えてくれてもいて、とても信頼している。
さて、その友人はメッセージで「今読んでいる本」を感想付きで送ってくれる。
「一気に読むには重たいけど、ぜひ読んでほしい」と言われたのは大竹昭子による須賀敦子論。
須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京 (文春文庫)
- 作者: 大竹昭子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2018/03/09
- メディア: 文庫
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「文庫なのに高いから貸してあげる」と言われたが、他県にいて会うきっかけもないだろうし手間をかけるのも、と思って買ってしまった。
しかし、「貸す」というところにその友人の本当の意味があったかもしれないと、あとで気付いた。(本の貸し借りにまつわることについては、また別の機会に書きたいと思う。)
次に「今読んでる」と送ってきたのは短歌と俳句の本で、「俳句やりたい」というコメントが付いていた。
私自身は短歌が好きで、大学では研究して論文も書いたが、自分で詠んだことは一度もない。友人は「短歌似合う。やってよ」と言う。
その人の、こともなげに「やればいいじゃん」というところに乗せられて、結果的にいつも救われてきたな、と思いだす。(でも短歌は今のところ作らない予定。)
このことで、種村弘が17年ぶりに出した歌集のことを思い出して、書店巡回の際に購入した。
書評などで知っていたが、なるほど、言われていたように確かに現在と過去とを行き来する作品。
歌そのものが独立してそれぞれに魅力的な物語があるのだが、かたまりから群となることによって、過去と現在を行き来する構成が活きている。
どれも楽しく懐かしい。
歌集というのは、本そのものの装丁も特に美しく、読んで楽しむことにくわえて、所有する喜びが味わえる。
そういえば、セッションで引用文を読み上げるということはやってはいるものの、短歌や俳句を読みあうとか解釈する機会はなかった。
そういうことも、いつかどこかでできたらいいと思う。
物語の重なり
朝礼の時。立ち上がった隣席の同僚から何かが落ちた。
葉っぱのようだった。
ただどこかでくっついたものが落ちたようには思えず、声をかけると、驚いて「下の子がくれた四葉のクローバーだ」という。
ポケットに入れているうちに押し花のようになって、それがはらりと落ちたのだった。
瞬間的に、私の心は野原にとんで、そこでクローバーをつみ、母に差し出す子の姿が浮かんで、また瞬間的にオフィスに戻ってきた。
自分たちの部署は忙しい。
その人は母であることも、するべき職務をまっとうすることもあきらめない、しなやかで強い人である。
かといって周囲に強がりもせず、遠慮もせず、こちらも気遣いはするが気遅れも気疲れもしないですんでいる。尊敬しかない。
休憩時間にその人が何気なく話す子どもとの日常のエピソードを聴くことは、私にとって楽しみであるが、もしかしたらその人にとっても語ることは癒しなのかもしれないと思う。
また別の日。
上の子の学校で、子どもが書いた七夕の短冊を見る機会があったという。
3つの願いを書くことになっており、その1番目は、母の仕事がうまくいくようにと(きわめて具体的な業務の内容まで)書かれていたとのことで、驚いちゃって、と話してくれた。
淋しいときも多いと思うが、それが母にとって自分たちと同じように力を注いでいるということが伝わっていて、分からないながらうまくいってほしいと思ったのか。
聞いた私の胸までも打つ。
その子たちは私のことを知らない。
私はその子たちの物語を知っている。
その子たちの物語に私が登場することはおそらくないだろう。
それでも、その子たちの物語にとって一番重要な登場人物に、別の局面では深く関わっている。
見えない物語のなかで助け合っていくことで、別の物語を美しく楽しいものにしていけるのではないかと思うのだ。
たくさんの物語の重なりが世の中を作っている。
一枚の葉っぱから考えたこと。
空気感について
たまたま、人の本棚を見る機会があった。
誰かの本棚を見るのがとても好きで、まちなかの店舗に本棚があれば、頼んで写真を撮らせてもらったりもしている。
さて、その本棚の主の職業柄、想像の範疇であったが大量の「本の本」があった。
自分が読んだ本、読んでいない本、知っている本、知らない本、古典から既刊、新刊まで。なるほどなるほど、と目で楽しく追っているとき、一冊だけふと目の端に引っかかった背表紙。
レンガ色の表紙が灰色の函からのぞく独特の装幀。
私の数少ない蔵書にもあって、お気に入りの一冊なのだ。
買ったのはみすず書房のフェアだった。みすず書房の本はどれも丁寧に作られていて美しいが、気軽に何冊も購入できる類の価格ではない。なのに、これを見たときはまったく迷わなかった。
帯文をヴィム・ベンダースが書いていることと、本の佇まい、そして何より「空気感」というタイトルに惹かれた。今ほど本を買う習慣も金銭的な余裕もなかったのに、よくこの本を買ったとつくづくと思う。
帰宅して早速、自分の書棚から抜きだして再読した。
この本は、 建築家ペーター・ツムトアの講演録で、400人を超える聴衆を前に行なわれたという。講演で語られた言葉とともに、美しい建築の写真が配置される。
ペーター・ツムトアの建築とそれを取りまく環境のあいだには相互作用がある。与えあい、受け取りあう。交感がある。互いが豊かになる。(p.5)
「美との対話」と題された、ブリギッテ・ラープス=エーレルトの序文数行にすぐ反応してしまう。与えあうだけじゃなく、受け取りあうということ。それは豊かさにつながること。
ページをめくるたび、そこにあるツムトアの美学。それらをあらためて新鮮な気持ちで、驚きをもって受け取る自分がいた。
こういう、建物に物が入ってくるというイメージーそれらは私が建築家として作るわけではないけれども、私が思いをいたす対象ではあるわけです―を持つと、私の作った建物の、私とは関わりのない未来の姿をかいま見ることができる。(pp.37-39)
建築は空間芸術である、とはよく言われますが、しかし建築は時間芸術でもあります。(p/39)
そして実にいろいろな物があるのです。美しいオブジェ、美しい書物、すべて陳列されている。楽器がある、チェンバロ、バイオリン・・・・(中略)
そしてこんな問いが胸に湧いてきたのです。こうした事物を受け入れる器を造ることが建築の務めではなかったか、と。(p.35)
生きている限り未来のことはついて回る。
現在は瞬時に過去に変わり、自分は常に未来と向き合う方になっている。
このごろは、そうしたことについて絶えず考えている。
建築について人並みはずれて詳しいとか好きということはない。けれども「場」が人に及ぼす作用については知りたいと思っていて、その雰囲気とか空気感については考えてきたと思う。
ただ、今回読み直してみて、「建物に物が入ってくるというイメージ」だとか「時間芸術」であるということを深く意識していなかったと気付かされた。
時間について考えるとき、自分にとっては「過去に作られた建築物」であっても、作られた時は「未来の姿」があった。
当たり前のことだ。
でも、いつもは思考の外側に無意識に追いやられてしまっているのだなと感じる。
本好きなら、誰もが惹かれる本だとは思うし、どこの本棚にあってもおかしくないのかもしれない。それでも、この本棚でこの本を見つけたことをとても嬉しく思った。
「あおくんときいろちゃん」考
色を混ぜるように考え方が混じり合うといい、そんな話になった。
二つの色が混ざるというと、すぐにこの絵本が頭に浮かぶ。
「あおくん」と「きいろちゃん」が仲良く遊んでいるうちに、混じり合って色が変化し、「みどり」になる。遊び疲れて家に帰ろうとすると、それぞれの家の親たちは「うちのあおくん/きいろちゃんじゃない」という。
かなしくなった二人は泣いて泣いて。「あおいなみだ」と「きいろいなみだ」を流すうちに、涙だけになってしまう。そしてまた、「あおくん」と「きいろちゃん」に戻り、親たちにも理解してもらえて、めでたしめでたし、というストーリーである。
ずっと前から知っていた絵本だったが、ふと、思いつく。
「みどり」になってから、またふたたび分かれた「あおくん」と「きいろちゃん」は、見ためは元通りでも、「みどり」として体験したうれしいたのしい時間を取り込んだ後なのだから、以前とは世界が違って見えているのではないのか。
などと思い始めてしまうと、ちゃんと読み直してみたいという気持ちになり、せっかくなので原著も調べてみることに決めた。
Little Blue and Little Yellow: A Story for Pippo and Other Children
- 作者: Leo Lionni
- 発売日: 2009/04/09
- メディア: 図書館
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こうしたとき、すぐに揃うのは書店より公共図書館である。
近隣にある図書館で所蔵しているところを調べ、日本語版も英語版も両方在庫している図書館に行って借りてきた。
ちなみに、日本語版は買い求めようと近隣の書店の何軒かに問い合わせたが、「その出版社は取り扱いがない」ということでどこも注文だった。
長く読み継がれてきた絵本ではあるが、意識して揃える専門店でないと置いていないものなのだなと実感した。『スイミー』などは置いている店もあった。
並べてみると顕著だったのだが、日本語版と英語版で色合いや紙質がかなり違っている。
【日本語版】
光沢がありざらざらした手触りの厚手の白い紙。あおくんの色合いは明るい水色。全体的に他の色もパステル調で、明るい。
【英語版】
普通の薄い紙。真っ白ではない。あおくんの色は紺色。全体的に他の色も濃く、暗い。
ただ、日本語版については2004年の版なので、もっと以前の版では違ったかもしれない。それにしても、日本語版の淡い色合いの方が明るく見えてよい。
さて、タイトル。日本語版では「あおくん」「きいろちゃん」としているが、男の子と女の子なのだろうか。
英語版は" little blue and little yellow " であり、別に「あおちゃん」「きいろくん」でも良さそうに思う。本文を確認してみた。
Here he is at home with papa and mama blue.
Little blue has many friends but his best friend is little yellow who lives across the street.
「あおくん」は " he " であり、彼。つまり男の子らしい。
対して日本語は
あおくんの おうち ぱぱと ままと いっしょ
おともだちがたくさん
でも いちばんの なかよしは きいろちゃん
きいろちゃんの おうちは とおりの むこう
となっている。
おお、ぱぱとまま、原著では " papa blue " " mama blue " となっているのだな。
その後読み進んだが、yellowについては " he " や " she " といった表記はなく、" little yellow " または " they " になっていた。男の子でも女の子でもいいわけだ。
しかし、よく考えてみたら、日本で小さな子どもに対し使う呼称としては「~ちゃん」の方が、「~くん」より圧倒的に多い。「きいろちゃん」は、" little yellow " 同様に、男の子でも女の子でもどっちでもよい呼称として間違っていないし、むしろ、" little blue " を「あおくん」としているところが " he "を上手にいかした訳ということになる。
「あおくん」と「きいろちゃん」が 街角で劇的に(?)出会って、喜び合っているうちに一体の「みどり」になるシーンについては
Happily they hugged each other and hugged each other until they were green.
よかったね あおくんと きいろちゃんは うれしくて
もう うれしくて うれしくて
とうとう みどりに なりました
ここも日本語のほうがいいなと感じる。
日本にはhugする文化がまだまだそれほど浸透していない。色がかわるまでhugするのではなく、「うれしくて もう うれしくて うれしくて」とすることで、やっと会えた嬉しさとか、嬉しさのあまり変化したということへのつながりが、すんなり入ってきやすい。
面白いな。
なお、Googleで「あおくんときいろちゃん」+「国会図書館」で検索すると、さらに興味深いことが分かる。
絵本『あおくんときいろちゃん』の翻訳をめぐって : 1998-02|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
どうやら既に、この翻訳について着目した論文があるようだ。
さらに、別のリンク先。
こんな質問が公共図書館に寄せられており、回答として各国の翻訳されたものへのリンク集が紹介されていた。
リンク先をのぞいてみたが、各国版の表紙の画像を見るだけでも、やはり色合いの違いが感じられた。
きっとそれぞれの国で一番 なじみやすい言い回しや、その国の光の中で一番 しっくり受け入れられる「あお」と「きいろ」で印刷されているのだろう。
それぞれの国の色。それぞれの国で絵本を読むときの、暮らしの中の光。
それらを想像しながら「あおくんときいろちゃん」を眺めていると、一冊の絵本から広がる世界にぐっときてしまう。
ちょっとした思いつきから本へつながって、また本から別の発想につながっていく。
なんと面白いことだろう。
セッション3
紙の本を読む際に、我々は文字を読む。文字の書体を眺めている。
その「本における文字の書体」について、深く考えたことはなかった。
そういうわけで特に「精興社書体」を使用した作品に着目して現代文学を語るという、今回の課題図書のテーマはとても新鮮に思えた。
この本は、東京駅近くの八重洲ブックセンターで見つけた。
平積みではなく、面陳でもなく、棚差しで。薄めの背表紙なのに手に取ってみたのは、やはり使われていた書体の力なのかもしれない。
本書は、精興社書体が使用されている17冊の現代文学を取り上げつつ、その周辺の本の世界を丹念に考察している。
少し読んでみてすぐ、著者の書く文章に好感を持った。相棒も積読本として所有しているということで、3回目の課題図書はこれになった。
読んでいると気持ちがよくて、文字の魅力を表現しているような文章(p.24)
どんなひとが、いつ、どんなかたち(書体)で出会うかによって、作品の読みかた、感じ方が変わるなんて、とてもぜいたくな、奇跡のようなことではないか。(p.57)
「読む」ことで得られる「気持ちがいい」感覚、そのことをどう広めていくかということは、最近の自分のテーマとなっている。
自分が好きだと思う音楽を聴いた時のように、はっと気持ちが晴れ晴れする風景を見た時のように、考え方がすっきりする感覚は、読書の醍醐味と感じる。
印刷、複製された文字として紙のうえにゆるぎなく固定されているように見えても、受け取る人間にとって、ことばの意味や概念は流動化する。(p.67)
自分にとっては当たり前のことであっても、こうして改めて言及されると、なるほどと思うのだった。
紙上のことばが「固定されたもの」と思ってしまうということ。
インターネット上のコメントはいつか「改変」されたり消えることもあるが、紙に印刷し複製されたものは「不変」「残る」というイメージ。
しかし、実際には「不変」なわけではなく、同じ文面でも、受け取る人間によって、また、そのタイミングによっても変わっていくものだ、ということ。
読書とは、いくつもの人生を知り、生きかたを学ぶことだと言われるけれど、子どものときはちがっていた。知るとか、学ぶとか、そういうことじゃなくて、心のどこかで真剣に「いれかわる」という可能性に望みをかけていた。(p.120)
自分も、 子ども時代が最も「本の世界に没入」できていたと思う。「本の虫」という言葉があるが、まさにその通りで読んでる最中は何も耳に入らず、親には怒られていた。
ただ、「いれかわる」という感覚はなかった。自分は観客だったと思う。映画のスクリーンを見ているような。
文字を追っているようで、こころを追っている。(p.128)
こころを追う。書いた人の、登場人物の。自分に気持ちの余裕がなかったりして追えなくなると、本を閉じる。心を閉じる。
本は読むのをやめたくなったら、自分のタイミングでやめることができる。
著者は、精興社書体という文字をトリガーとし、それを媒介として、異なる時代や作家をつなげようとしている。読み手は、その試みを追っていくうち、本について考えたり、読書という行為について、深く考えるようになっていく、そんな本だと感じた。
同じ本をふたりの人間が読むとすると、そこで読まれるものは、けっして同じではないと思います。それぞれが、本の中に自分をつれこむからです。
(中略)
だから本はいつも、ある意味では読者を映す鏡です。(p.140)
本書の一番の肝はここだと感じた。
いったん「本の中に自分をつれこむ」というのは、まさに「本になる」ことではないか。
今回のセッションにおいては、相棒はそんなに本の内容について深く触れることはなかったように思う。
自分はといえば、ついつい雑談になってしまいがちなので、その都度本題に戻さなくてはと考えていたのだが、今思えばその軌道修正は必要なかった。
読書会は、自分以外の誰かと同じ本を読み、互いに感想を述べあうことで、自分の考え方を確認する行為だと思う。相手の考えに照らされて、自分の考えがくっきりと見えてくる。
すでに同じ本を読み終えた、つまり一度その本にとりこまれた自分が話すことは、読む前の自分とは少し違う自分。
本の内容について、とことん考えを述べあう回もあれば、本の内容以外について、読んだことで変わった自分たちの考えを照らし合わせていく回もあっていい。
音合わせが、予定していたものと変わっていても、愉快な調べになっていけばよいのだ。
ロックの日
6月9日、ロックの日だった。
ロックの定義や範囲は調べるときりがなさそうだし、「しらべ」というタイトルのブログではあるけれどこの場は置いておく。
せっかく休日だったこともあり、自分の中で「ロックだな」と思う曲をひたすら聴いた。
1.ゆらゆら帝国で考え中
元同僚がファンで、教えてもらったスリーピースバンドである。
数回ライブにも同行させてもらった。思えばこの頃は音楽に詳しい同世代が同じ部署に自分も含めて5人いて(ひとりはプロを目指してもいた)、飲み会でも音楽談義だけで何時間も話ができるような、いい時代だった。若かった・・・。
元同僚はヴォーカルの坂本慎太郎氏のファンだったけど、自分は連れて行ってもらったライブでベースの亀川千代氏に釘付けになってしまった。
なんてかっこいい・・・。ベースを持つ角度、出てくる音、風貌、何もかも一度見たら聴いたら忘れることができない。ドラムスの柴田一郎氏もかっこよかった。
日本語にこだわった歌詞というのもよかった。
2.ドレッドライダー
ドラムスの沼澤尚氏を大リスペクトしていて、その流れで知ったバンド。
自分がライブに行っていたころはすでに熟練期に突入していたので、定番曲はアレンジで演奏することが増えていた。
アルバムで聴くとまっすぐで素直に歌っていて、明るい声だと感じる。
3.ストレンジ カメレオン
- アーティスト: the pillows,山中さわお,鹿島達也,鈴木淳,吉田仁
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2001/02/07
- メディア: CD
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the pillowsを知ったきっかけは実は他のアーティストのカバーだった。
- アーティスト: オムニバス,Mr.Children,YUTA.TOSHI.CHIHO and JIRO’S SESSION,ストレイテナー,ELLEGARDEN,The ピーズ with クハラカズユキ,noodles,YO-KING,佐藤竹善,GOING UNDER GROUND,SALON MUSIC
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2004/09/16
- メディア: CD
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この中に好きなアーティストが参加していて、このトリビュートで演奏されている曲を知った。このトリビュートアルバムは、どの曲もどのアーティストもすごく良いと思っていて、今でもドライブの時に定期的に流す。
Mr.Childrenの桜井和寿氏が歌っていると大熱唱だけれど、本家があっさりと歌うバージョンも好きだ。
4.アルクアラウンド
サカナクションである。
「バッハの旋律を夜に聴いたせいです」の衝撃から知ったが、その後もキャッチ―なサウンドが商業的宣伝に親和性があってよく流れてくる。
ただ、アルバムで通して聴くと、これは踊るための楽曲たちなんだなと思う。どの曲も夜が似合う(私見)。
5.幸福な朝食 退屈な夕食
斉藤和義氏も別の元同僚に教えてもらった。一番好きな曲は別の曲だが、でもその時々で聴きたい曲は変わる。最近はこの曲が やたら沁みる。
作家の伊坂幸太郎がファンで、サラリーマンと作家の二足のわらじの時代に、この曲を聴いて作家だけで生きていこうと決意した、という逸話は有名(出典は未確認)。
6.愛
- アーティスト: 真心ブラザーズ,桜井秀俊,倉持陽一,BOB DYLAN
- 出版社/メーカー: キューンミュージック
- 発売日: 1995/05/01
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真心ブラザーズである。
ラップの部分が印象深いけれども、あらためて聴くとバックのバンドサウンドがソウルっぽい。かっこいい。真心は歌詞がなんというか、カジュアルなのがよい。
7.今宵の月のように
All Time Best Album THE FIGHTING MAN(通常盤)
- アーティスト: エレファントカシマシ
- 出版社/メーカー: Universal Music =music=
- 発売日: 2017/03/21
- メディア: CD
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エレファントカシマシは今年2018年が30周年ということで、メディア露出が大変多い。この歌は歌いたい歌。難しいけど。
くだらねえというつぶやきから、いつの日かまた輝くという希望をなぞることで元気が出る。さあ頑張ろうぜといわれるより頑張れる。
真夏の夜空、新しい季節のはじまりがそろそろだなと思う。
こうしてみると日本のロックばかりだった。
そして人に教えてもらったり、トリビュートやカバーやバックミュージシャンだったり、人と人との繋がりで興味をもって知った音楽が多いと気付く。
自分一人だと、好みが広がらないし、断片的に一曲だけでは好きじゃないと判断してしまう場合もあるから、人から勧められて、物としてアーティストが表現を編集してまとめた「アルバム」を借りた、という体験はとてもよかったと思う。
今ならさしずめ教えてもらった音源をダウンロードしたりするのかな。
それはそれでシンプルでよいけど、いいとこどりのベスト盤とちょっと好みじゃない曲も入ってるアルバムとが全然違ったように、何かが変わるんだろうなと感じた。
そんなロックの日。