セッション2

月例セッション第2回。

 

ミュージシャンはセッションに備えてリハーサルをするけれども(しないというバンドもある)、われわれもリハーサルよろしく、日々思考の交換はしている。ときには、おやつの交換も。

 

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

 

 

さておき、今回のテーマ本である。

この本を最初に手に取った時、インターネットで観た書影からのイメージとは違う「軽さ」に驚いたのだった。ハードカバーではなく、ペーパーバッグのようなソフトカバーで、折り紙みたいな表紙はやや強めに開くとめりめりと音がする。

 

本における「天」も切っていない、ぎざぎざのまま、という指摘あり。

アンカット。これらはきっと、わざとだろうという見解。

 

付箋した箇所を披露しあって、「同じだ」ということが続く。

自分の話ばかり聞いてもらっていたかも。次回はもう少し聞き手にならねば。

 

本書では、「本は書店の細胞だ」(p.21)「知識は財産である」(p.163)というように、言い切り方がたびたび出てくるのだが、そこが気持ちいいという意見も一致してたように思う。

 

本を読むことが好きで選んだ道ではなく、本を待つ人たちのために本屋になったのである。(p.266)

 

そもそも、なぜ本なのか、なぜ本の周辺の仕事を選んだのか。

 

様々な理由は付けられるが、

リハーサルやセッションの中で相手から提示される考えは、とても面白い。

 

人の方が本という存在に突き動かされている、というのは、モンテレッジォの人々に限らず、そうなのだろう。

 

自分も本に動かされて今の場所に来たようなものだ。

まだ道の途中にいる感じがしていて、留まるのかまたどこかに行くのか分からないが、その道ゆきを楽しみたい。

 

 

 

 

 

骨のはなし

生まれて初めて骨折をした。

 

こんな些細なことで、と思うきっかけで。

 

まあ、足の薬指にヒビ程度のものなので、見た目は分からないし、大したケガではない。

 

しかし、自分が予想していた以上に「生活に支障」は出てきている。

 

不自由である。

 

不便である。

 

しばらくは遠出はもちろん、近くの買い物もしんどいということが分かった。

 

まったくもって、「骨が折れる」とはよくいったものだ。

 

くたびれる。

 

「骨身にしみて」ます。

 

「骨のある人」という言い方もあります。

 

「骨太な」とは言うが、「骨細な」とは言わない。

 

 

がいこつさん (日本の創作絵本)

がいこつさん (日本の創作絵本)

 

 

骨に関する本で最初に浮かぶのはこちら。

 

子どものころ、6つ下のきょうだいが初めて自分で選んで買ってもらった絵本。

 

がいこつなんて怖いなと思っていたが、ページをめくると不思議に落ち着いた記憶がある。

 

静謐のなかで「くらし」を送る がいこつさんの姿は、少し自分に似ている。

 

雨の休日

休みの日の朝、よく雨が降った。

雨の日は音楽に身を預けたくなる。

 

かつて、よく通っていたまちに<雨と休日>というCDセレクトショップがあった。

shop.ameto.biz

童話や映画に出てきそうな、不思議な佇まいのお店だった。

西荻窪という場所によく似合っていたと思う。

 

「雨の日や休みの日」にとくべつ聴きたい音楽というのは確かにあって、

そういう日に聴いてほしい音楽を集めたというコンセプトにぐっとくる。

なくなってしまったと思っていたがオンラインでまだ続いていたのだな。

 

ただ、先のエントリでも書いたけれど、

「いま」の音楽の作り手を応援するという意味では、店頭のCD販売のみでは難しい。

現在の<雨と休日>に関していえば、ある視点から見た「文化を届ける」ことを目的としていると感じる。

 

 

雨そして音楽に関する本といえば、自分にとっては江國香織のエッセイ『雨はコーラがのめない』である。

 

雨はコーラがのめない

雨はコーラがのめない

 

 

雨はコーラがのめない (新潮文庫)

雨はコーラがのめない (新潮文庫)

 

 

まず、タイトルが素敵だ。

単行本は大和書房で出版されたが、そのレンガ色の装丁(本文中に出てくる曲名が書かれている)もよかった。

 

トリッキーなタイトルに出てくる<雨>の正体は、著者の愛犬のコッカスパニエルの名前である。

<雨>との生活の中で聴いた音楽の記録。

 

著者は、<雨>がいなかった時代の曲を<雨>とともに聴くことについて、何度も触れている。

 

好きなアルバムというのは、ずーっと、あるいは折にふれて聴き続け、たいてい自分の「定番」になる。 稀に、定番にならずにしまい込まれるものがあり、そういうものは、 聴くと瞬時に特定の時期およびその日々の状況、聴いていた部屋の 様子まで浮かんできてしまう。それは、現在に満足しているときに だけ、ちょっと愉しい「特別」になり、そうでないときは、たいてい気恥かしさやある種の痛々しさをつれてくる。(p.73 以下、引用は新潮文庫版による)

 

記憶と、そのときには全く知らなかった現在の自分とのギャップを、私はたのしいと思う。時間がたつのはすてきなことだ。たとえばかつては存在しなかった雨が、いまは存在する。(p.45)

 

雨の知らない日々の音楽を雨と聴いていることで、私はちょっと混乱する。雨を連れてタイムスリップしているような気がするからだ。(p.105)

 

この気持ちはとてもよく分かる。

一時期熱心に聴いた音楽たちが10年物、20年物になろうかという年齢になってみて、

その間出会わなかった人たちとその音楽を共有するとき、

自分のその時代とともに、その人が過ごしてきた別の時間を思って怯むことがある。

 

 

自分にとってなくてはならない、そんな音楽たちだが、

それらを最初に教えてくれた人たちとはもう縁がなくなっていることも多い。

でもその音楽が自分の年月を支えてきた。

そうして、 同じようにそれらの音楽に支えられてきた人に、また新しく出会っていく。

 

そして、歌詞をやけに憶えているのは、はまったからというのではなく、一曲ごとに物語がちゃんとある類の曲だからだ、と、気づいた。その物語と、この人の声の持つ温度や質感がぴったり合っているのだ。

だから本を読むみたいに聴けてしまう。(pp.74-75)

 

物語のある音楽と、物語のある本の、人に及ぼす作用は同じである。

 

何もかもを忘れさせてくれたり、

現在にいながらにして体験することができたり。

 

自分に合った物語があれば

音楽も本の中の出来事も

雨のように降り注いで、色々を洗い流して

頭の中心の中を さっぱりさせることができるのだ。

 

 

 

壁新聞

 

思考が常に混沌としているので、会話に脈絡がないと言われる。

「思い付き」に無意識下で常に飛びついている。

 

この本を選ぶことになったいきさつも思考の連鎖によるものだが、出発点は何だったかもう覚えていない。

とにかく吉田篤弘の本を読みたくなって、最初は別の本を目指して棚に向かったのに、隣にあった本を最終的に選んでしまったのだ。

 金曜日の本 (単行本)

金曜日の本 (単行本)

 

ひとつの掌編をのぞき、他は著者の実話で、12歳ごろまでの記憶がつづられる。

読んでいる間、幾度となく自分の体験をなぞるような気持ちになる。

 

全編にわたって、まぎれもなく本の話だった。

今取り組んでいる課題書のブレイク的に読もうとあえて薄い本を選んだのに、ばっちり関連書になっていた。我ながら「引き」が強い。

 

読んでいくと、とにかく著者の記憶力のよさに驚かされる。

そのクリアな記憶力と描写によって、自分の記憶も呼び覚まされる。

 

初めての立ち読み、最初に読んだ文庫本、布団の中で本を読む面白さの発見。

 

そして、「壁新聞」。

 

小学生のころ、自分も壁新聞を発行するのに熱中した時期がある。

担任の先生から考えると、多分2年生だったと思う。

 

A4の原稿用紙(緑色の小さい薄い資格がいっぱい並んでいて印刷機にかけると線は消える)に鉛筆で、書いた。

内容を考えて見出しを考えてレイアウトして・・・こんなに楽しいことないって思った。全員が完成した自分新聞の第1号は、後ろの掲示板にずらっと貼りだされて、いつでも読めるようになっていた。

休み時間や家で書いたものも貼ってよかったので、どんどん発行した。

日によって2号くらい発行したかもしれない。

あっという間に30号は越えて、おそらくクラスで一番発行数を重ねていたと思う。

子どもだから人に語れるような大した経験はなかったはずだけれど。

 

 「話すより書くことが得意」というよりも、

読むことによって繰り返し味わえる文章というものが大好きで、

それを自分で生み出せる「書く」ことに喜びを覚えていたのだろう。

 

大量の壁新聞はしばらく空き箱にしまわれていた。

大人になって読みたくなり探したが、どこかの引っ越しの過程で散佚してしまったようだ。

ノスタルジーのない親をもつと身の回りはすっきりしてよいが、

時々残念なこともある。

 

本とつきあうときはひとりでいることが重要なのだと子供ながらに気づいていた。(p.14)

 

よく図書館や書店、喫茶店で静寂を求められるが、それは静かであることが重要なのではなく、ちゃんと「ひとり」になれることが求められるからではないか。

たとえ賑々しくても、「ひとり」になれればそれでよい。

実際、自分が読書にもっとも没入した小学生時代、学校の休み時間の教室は、全然静かではなかったし。

本は読むことももちろん大事だけれど、その前に、自分ひとりで選ぶことが重要だった。選ぶことは見つけることで、できれば、そうして見つけた本を自分のものにすることーその愉しみを「金曜日の本」という言葉に託した。(p.117)

 

選ぶことと、 見つけること。

「読む」が注目されがちな読書行為のなかで、これはなかなか大事なことである。

 

金曜日の本。

 

金曜日に本の話をしよう、と決まったのも、偶然ではないのかもしれないな。

 

パラで生きる

 

パラレル

パラレル

 

長嶋有という小説家を知ったのはこの作品だった。

もう15年ほど前なのか、と驚く。

当時は自分も若く、作品は面白いと思ったし感銘を受けたものの、この主人公周辺の諦めともいえる雰囲気にはまだピンとこなかった。

今読むとまた違った感想を抱くのではないか。

 

いくつかの時代と

いくつかの人の組み合わせ

それらが平行して行きつ戻りつを繰り返して

ストーリーは進む。

 

作中に「パラで走らせる」というセリフが出てくる。

 

それはちょっとけしからぬ感じで使われてはいるのだけど、一定の距離を保ちながら決して交わらない、でも同じように走るという「パラレル」というのはそれ以降ずっと印象に残っている言葉。

 

伴走とか、平行とか。

「寄り添う」では近すぎる。

 

人に対して、一定の距離を保とうとする癖は以前からあった。

年齢を重ねるにつれてその傾向はますます強くなっている気がする。

若いころはそれを「冷たい」とか「寂しい」と言われることもあったが、

この頃はそう言われなくなった。

 

『パラレル』の主人公は、時代を行ったり来たりしながら

成長していないように見えるのだが、

それでも物語に小さくはない進展がある。

 

パラレルに生きることは面白いことだと思う。

 

あの山越えて

山は、すそのがよい。

 

そう思ったのは大きな山が見える今の土地に来てからだと思う。

 

とはいえ、大きな山は毎日見えるわけではない。

天候によってまったく見えない日もあるし、部分的にしか見えなかったり、シルエットが薄ぼんやりと浮かび上がっているだけという日もある。

 

実際の距離的には相当離れているはずの土地からの方がよく見えていたような気もするが、絶対にそこにあるのに「見えない」ことで、なぜか近しく感じて親しみを覚える。

今日はいないんだな、とか。いたね、とか。

 

先日遭遇した

「あの山を越えれば」という感覚も備わらない、どこまでいっても平野の風景

という言葉(大意)に胸を衝かれた。

 

「山派」か「海派」か以前に、そのどちらもない場所もあるわけだ。


遮るものがなく、その先にも何も見えるものがないと、かえってどこにも行けない気持ちになるのだろうか。

 

そういえば、子どものころ一番行きたくないのは砂漠だった。

 

暑いのは嫌だけれど、延々と同じ風景の中で幻の水に翻弄されながら歩くなんて耐えられないなって。

 

区切るってことが、人には安心なのだろうか。

 

そうではない

 

何かに出会いたいので、そうした予兆を風景の中に少しでも、探したいのかもしれない。

 

 

 

自分のものにするやり方

 

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)

誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち (ハヤカワ文庫 NF)

 

 

人から読み終わった本の感想を聞くのもよいが、積ん読になっている本や、読んでる最中の本について語ってもらうというのも、面白い。
今日は馴染みの古書店店主が「現代において音楽を聴く方法」とからめて、上記の本の紹介をしてくれた。


自分はモノにこだわるタイプだし、きっとCDを買い続けるんだろうと思っていたが、ついに定額配信サービスを契約してみたという。

「モノ」としてのCDや本が、電子的な形式のものに移行していく時代において、人々はどうやって音楽を聴くようになっているのだろうか。
本の世界も他人事じゃない、と感じるような内容らしい。

確かに、お気に入りのアーティストの新作アルバムを発売日当日(もしくは前日)に、足を運んで買いに行った時代もあったのです。
ダウンロード時代に信じられない向きもあるかもしれない。

「定額で聴き放題で、聴いた分だけそのアーティストの元に還元されるらしい」

これを聞いて、この店主氏が配信サービスにトライしたのは、CD自体を制作することが難しい時代にどうしたらアーティストの支援になるのかと考えてのことではないかと感じた。

自分は、これまでポータブルの再生機器で交通機関での移動中に聴くことが多かった。
しかし、生活のエリアを大きく変えた関係で、これまで聴いていた局が入らなくなった。
二度とあまり聴くこともないだろうと思っていたCDアルバムを持っていったのだが、車の中で、部屋の中で、再度聴くようになったし、また、同じ趣味の人から、様々な楽曲を教えてもらい、インターネットからダウンロードして聴いた。
今ならばインターネットで契約すれば、エリア外のラジオ局も聴けるようになる。
音楽に関していえば、むしろ聴く機会は増えているかもしれない。
音楽を、自分のものにして聴くやり方は時代により確かに変わった。

本はどうだろうか。
欲しい本が分かっている人にとっては、インターネット書店は便利である。
しかし、本に関していえば、やはり出会い方はそれだけでは難しい。
コンテンツだけでなく、「モノ」としての側面から人に及ぼす効果も大きく、それが一定量あって様々な角度や視点から提供されている場というのは、様々な形であって欲しいと感じる。
そして、そうした場に、本の情報を共有できる人がいることは必要だと思う。
本には人がつきものだから。

閉じたものであるようで、双方向性どころではなく、多方向に向かって、開いているものなのだから。

人々が、それぞれに必要な本を自分のものにしていく。
そのやり方について、いい方法が(ひとつではなく)、きっとあると思う。